伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2017年6月8日: 「旅の夜風」と「悲しき子守歌」 T.G.

 前の日誌に軍歌のことを書いた。読み返してみて、父が生まれたばかりの息子に毎日軍歌を聴かせて、右翼の軍国少年に育てた軍国オヤジのように誤解されそうなので、父の名誉のために続きを書く。

 父も母も明治の生まれである。父は丁稚奉公からたたき上げの無学な呉服商で、名古屋の中心部に小さな呉服店を構えていた。名古屋の山の手のお嬢さんで、その頃では珍しかった女学校出の母と見合い結婚し、三男三女をもうけた。商売は上手かったらしく、昭和19年に赤紙招集されるまでに、いくらか蓄えが出来ていたらしい。戦争は激しくなっていたが、まさか30過ぎの6人の子持ちの商人に赤紙が来るとは思っていなかったに違いない。戦況から死を覚悟したのだろうか、店をたたんでその金で株券を買い、この金で息子を大学まで行かせろと母に言い残して出征したと言う。当時軍需景気に沸いていた川崎造船株だったそうだが、そこそこまとまった金だったのだろう。不幸にも父の目論見は外れ、僅か1年半後に紙切れになってしまった。

 その話を伝蔵荘の帰りの車の中で羽鳥湖のSa君にしたら、もし君のオヤジが戦死せず、名古屋で呉服屋を続けていたら、おそらく呉服屋の二代目のボンボンは名古屋の坊ちゃん大学へ行き、あとを継いで呉服屋の旦那になっていた。小金を溜めて妾でも囲って、面白おかしくやっていたに違いないという。さもありなん。今のようなろくな資産もない大学出の貧乏サラリーマンとは別の人生を送っていた可能性大である。はたしてどちらが良かったのか。

 与太話はさておき、出征するまでの我が家は商売も順調で、子煩悩な父親と、しっかり者の母親と、6人の兄弟姉妹が幸せに暮らしていた。6歳年上の姉の話では、海水浴に連れて行ってもらったり、近くの映画館にしばしば流行りの映画を見に行ったりしたという。初めて生まれた男の子である小生は、いつも父の膝に抱かれていたという。そういう話を姉から聞かされると、軍国主義に怯えた庶民が、声をひそめて暮らす暗黒時代とはとても思えない。レコードもその一つだが、戦争下にもかかわらず庶民はそこそこ生活を楽しみ、幸せに暮らせていたのだ。

 前に日誌に書いたように、我が家はその頃は珍しかった蓄音機を買って、レコードを楽しんでいた。軍歌のレコードばかりではなく、ほとんどが歌謡曲で、軍歌は僅かだった。だから小生の空覚えの歌は、軍歌より歌謡曲の方がはるかに多い。無学な父がクラシック音楽のレコードを買うはずもなく、モーツアルトやバッハが好きになるのはずっと後のことである。

 その子守歌代わりに聴かされた歌謡曲の代表曲が「旅の夜風」と「悲しき子守歌」である。特に「悲しき子守歌」が好きで、今でも時々口ずさむ。両方とも昭和13年に封切られた松竹映画、「愛染かつら」の主題歌である。川口松太郎の大衆小説を映画化したもので、夫と死別し、幼い娘を育てる薄幸の美人看護婦、高石かつ枝と、病院長の令息、津村浩三のラブストーリーである。美貌のバツイチ看護婦を田中絹代、病院長の令息を上原謙と言う当時の二大スターが共演して大ヒットし、主題歌もヒットした。そのレコードである。父も母もかなりのミーちゃんハーちゃんだったようだ。その「悲しき子守歌」である。

  可愛いお前があればこそ、
  辛い浮世もなんのこそ、
  世間の口もなんのこそ、
  母は楽しく生きるのよ。  「悲しき子守歌」YouTube

 小生空覚えの歌詞の最後のフレーズは、元歌と違って「母は“強く”生きるのよ」である。なぜそう記憶が間違ったのか定かでない。おそらく髪振り乱して子育てをしていた戦争未亡人の母と重ね合わせて、脳内記憶が書き換えられたのだろう。小学生の頃、何気なく鼻歌で唄っていたら、そばで聴いていた伯母に「あなたのお母さんの歌だね」と言われたのを憶えている。言うなれば、この歌は小生にとって母のテーマソングなのだ。息子の小生が言うのも変だが、若くして亡くなった母は田中絹代に似た美人で、このYouTube動画に使われている映画シーンに登場する田中絹代と、顔立ちや面影がそっくりである。時々見ては母を想い出す。家人のこの話をすると、「あなたはどうしようもないマザコンね」と一笑に付されるのだが。

  花も嵐も踏み越えて、
  行くが男の生きる道、
  泣いてくれるなほろほろ鳥よ、
  月の比叡を一人ゆく。    「旅の夜風」 Youtube

 ついで「旅の夜風」である。「悲しき子守歌」が女主人公田中絹代の主題歌とすれば、こちらはもう一人の主人公、上原謙の主題歌である。上原謙は加山雄三の父親で、戦前戦後を通じて田中絹代と並ぶ日本映画の大スターだった。加山雄三とは違い、絵に描いたような絶世の美男子である。そのことはこのYoutube映像でも分かる。この男心をうたった「旅の夜風」は戦後もラジオやテレビの歌謡番組で盛んに歌われたが、女心の「悲しき子守歌」はなぜか滅多に歌われなくなり、忘れられた。カラオケにも滅多に収録されていない。見つかるのはYouTubeぐらいである。

 そのほか幾つか子守歌代わりの歌謡曲をあげると、昭和15年、小生誕生の年に発売された、高峰三枝子の「湖畔の宿」「懐かしのブルース」、李香蘭主演の映画「支那の夜」の主題歌「蘇州夜曲」、昭和13年発売のディック・ミネの「上海ブルース」、淡谷のり子の「雨のブルース」「別れのブルース」などである。「湖畔の宿」は高峰三枝子が特攻隊慰問の折に歌ったという。高峰三枝子と上原謙は、40年後の1981年、国鉄時代のフルムーン切符のCMで、法師温泉の混浴風呂に二人並んで浸かっている写真で話題を呼んだ。その歳になっても上原謙は相変わらず美男子で、美人女優の高峰三枝子の胸が見事なボインだったので世間が驚いた。

 こうしてみると戦死した父の趣味、好みが偲ばれる歌ばかりで、断じて軍国オヤジではないことが分かる。世の中にこういう娯楽が溢れ、庶民が楽しんでいた時代が暗黒時代であるはずがなかったことも分かる。

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