伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2017年5月28日: 八甲田山死の彷徨とリーダーシップ GP生

 先日、会社勤務の息子が管理者教育を受けた。新田次郎著「八甲田山死の彷徨」を読み、リーダーシップのあり方を考察する内容であった。息子は「親父なら、どう考える?」といって、考察を書き込む用紙を置いていった。見ると、師団や連隊の行動を時系列に記述し、そこからリーダーシップのポイントを分析、記載する内容になっていた。管理者教育とは、とうの昔に縁が切れていたが、「八甲田山死の彷徨」を改めて読み直した。

 新田次郎著「八甲田山死の彷徨」は、昭和46年新潮社より出版された。雪中行軍に参加した青森第五連隊210名は、八甲田山で遭難し、生存者11名、199名死亡、の大惨事を起こした。日露開戦が避けられそうもない明治34年末、陸軍は満州での戦闘を予想し、寒冷地装備と兵員への寒冷地教育の必要性は認識していたものの、何れも未経験の分野であった。このため、青森の第八師団が寒冷地研究の任に当たり、青森第五連隊と弘前第三十一連隊に対して、中隊又は小隊規模での厳寒期八甲田山雪中行軍の命が下された。第五連隊と第三十一連隊は、そけぞれ独自の編成、経路で行軍計画を検討した。第五連隊は神田大尉、第三十一連隊は徳島大尉が、計画・実行指揮官として任命され、結果的に、二つの連隊を競わせる形となった。これが、五連隊遭難の遠因となった。

 徳島大尉は上官の大隊長から信頼が厚く、一切を任されていた。一方、平民出身の神田大尉は、能力は優れてたが、大隊長との関係は好ましいものではなかった。士族意識が色濃く残る明治時代にあって、能力の有無とは関係無く、平民出身士官は、士族出の上官から軽んじられる風潮は強かったようだ。上司と部下の信頼関係は、何れの組織でも事の成否に大きく影響をする。軍隊のように、上意下達が絶対視される組織でも、上下間での意思疎通に滞りが生ずれば、兵員の生命が危険にさらされる事になる。

 第三十一連隊の徳島大尉は、小隊規模の行軍を企画した。編成は士官や見習士官が中心で、兵卒は行軍予定の地理に詳しい地元出身者を選抜した。徳島大尉は、部下の装備も考えられる限りの準備を行い、宿泊は民泊とし、装備の軽量化に努めた。大尉は部下全員に研究課題を与え、意識向上を計った。一方、第五連隊は中隊規模の行軍を志した。第三十一連隊への対抗心があったのだろう。神田大尉による小峠までの日帰り訓練が、晴天に恵まれ順調に行われ事も後押しした。

 明治35年1月20日、第三十一連隊の精鋭を集めた徳島小隊は、弘前の兵舎を発した。十和田湖南岸を経て三本木集落に至り、そこから反転して八甲田山に入り青森に至るルートである。一方、五連隊は青森から小峠、八甲田山、田代温泉を経由して三本木に至る短期日程であった。長期行軍を実施した徳島小隊が無事目的を達し、短期行軍の五連隊が八甲田山の雪中で壊滅した。この著しい対比が、リーダーシップのあり方を問う、管理者教育の眼目であろう。自分が、この課題に関心を持ったのは、それぞれ異なる組織運営に、20代で携わった経験が有ったからだ。

 始めて組織の責任者を経験したのは、大学のワンダーフォーゲル部であった。ワンダーフォーゲルとは、自然の中を散策することで、自然に親しみ、心身を鍛えることを目的とした活動だ。日本では、自然が色濃く残る山岳地帯が活動の場となった。ワンダーフォーゲル部最大のイベントは、10日以上に亘る夏合宿である。夏合宿は、総勢数十名が参加した。小パーティーが、定められた場所に、決められた期日に集合する形式が多かった。集合日の夜は、盛大なキャンプファイヤーで、合宿の成功を祝ったものだ。

 参加者全員が無事集合するには、日頃のトレーニングや装備、行程の綿密な検討、それにチームワークが大事だ。部活動では、学年や年齢の異なる仲間同士の交流を通して、お互いを知ることになる。チームワークには、その結果が現れる。山行での遭難防止は、リーダーを中心にしたチームワークが要だ。そのために、合宿でのパーティリーダーの決定やメンバー編成には、TG君や亡きTO君達と議論を重ねたものだ。実際の山行では、出発、休憩、昼食、宿泊、停滞、待避等は、全てパーティーリーダーの判断一つで行われた。当時、意識はしなかったが、ワンダーフォーゲル部での活動は、リーダーシップの基本をトレーニングする機会でもあった。

 卒業後は鉱山会社に就職した。鉱山勤務三年目に、部下40名を有する採掘現場の責任者に任命された。リーダーのあり方を、真剣に考えざるを得ない立場であった。採鉱課の職制は課長、係長、坑場主任からなり、生産を直接担当する坑場主任は、旧軍では小隊長の立場だ。坑場主任は、人事を含む坑場運営全てに、責任と権限を有していた。自分は、新任少尉として、小隊勤務に就くことになった。

 部下は、旧軍の軍曹に相当する一級組長1名、伍長に相当する二級組長2名と兵卒に相当する坑内員だ。坑内員は、鑿岩手、支柱手、運搬手、それに、手子と称する見習に分類された。これらの職種は、技能レベルの序列で、鑿岩手は尊敬の対象ですらあった。組長は、鑿岩手の中から技能、人格、人心掌握等に優れた者が抜擢された。名称こそ違うが、実態は旧軍隊組織そのものだ。警察、消防等危険を背負って活動する組織は、皆軍隊に似た組織になる。鉱山も危険と裏腹な仕事だ。組織が軍隊と似るのは、危機管理を考えれば当然の事だ。自分が入社する前は、二級組長は伍長と呼ばれていた。

 採掘は地下数百メートルの鉱脈を掘り、採掘跡を埋める作業の連続である。鑿岩、発破、支柱、運搬等は、カンテラの灯りの下で行われた。どれを取っても危険を伴う作業だ。坑場主任は、事務仕事以外にも、入坑前の保安指示や坑内の作業現場や切羽を巡回するのが日課であった。巡回は、坑道を歩き、急勾配の掘り上がりを上下した。じん肺防止の防塵マスクと保安長靴着用で、暗闇の中、ヘルメットのカンテラを頼りに毎日数qを歩いた。昼食は、「見張り」と称する坑内の現場事務所で、全員一緒に摂った。食事前に、全員の無事を確認するのが常であった。社宅に帰っても、2ノ方の勤務が終わるまでは、気を緩められなかった。事故、トラブルの電話があれば、何時でも駆けつける心構えでいたからだ。当然、休日以外、飲酒は厳禁だった。

 坑場主任の殆どは、死亡災害を経験している。災害は、無理な作業と保安上の盲点から生じた。部下を死なせた坑場主任は、一生消えること無い心の傷を背負った。部下の安全を守り、求められる生産を維持する事は、坑場主任の重い役割であった。新任少尉として、小隊任務に就いた自分は、7年後、転勤により鉱山を去るまで、軽い怪我人はあっても、死者は一人も出すことはなかった。裸の付き合いが出来た係長と組長のお陰に尽きる。組長は、未経験の若い自分を支えてくれた。自分の指示がおかしいと、率直に意見してくれたが、部下の前では徹底して立ててくれた。係長からは、よく叱られた。怒鳴られもしたが、成長のための鞭であった。リーダーシップとは、単独で発揮できるものではない。上司の理解と部下との信頼関係が無ければ成り立たないことを、身をもって体験した。ワンダーフォーゲル部と鉱山での経験は、その後の人生で大きな糧となった。

 第五連隊の雪中行軍隊は、徳島小隊が出発した翌日、青森を発した。途中の田茂野木部落までは順調に行軍したが、天候の急変に遭遇した。ここから、指揮権の乱れが生じた。大隊長を含む大隊本部9名が、スタッフとして随行していからだ。スタッフたる大隊長が指揮官神田大尉を差し置き、職権を盾にして出発命令を発したのだ。軍医と相談し、天候悪化による行軍中止を進言した指揮官神田大尉は、無視された。その後の中隊は、大隊長の指揮下に入った。中隊は、小峠にたどり着いたが、留まること無く、田代温泉めざし吹雪の八甲田山に踏み込んで行った。

 中隊210名の兵員が吹雪の中を行軍すれば、遅れが生じ隊列は長くなる。まず、深雪により14台の橇隊56名が遅れ出し、行軍全体の遅滞が始まった。吹雪の中、大隊長は進むべき方向を見失い、次第に全体の統率が執れなくなって行った。こうして中隊の彷徨の始まった。中隊が壊滅に至るまでの間、危機を脱する機会はあったが、大隊長の判断は、尽く部隊を破滅へと追い進めるものであった。雪山を知らず、部下の意見を聞かず、権限にこだわったリーダーの悲劇がここにある。救助された大隊長は、責任を執り病室で自決した。

 第五連隊遭難の最大要因は、記録的な低気圧と寒冷前線の通過に見舞われたことにある。気象史に残る悪天候が無かったかったとしたら、無事、田代温泉に辿り着いていただろう。徳島小隊は、2日目に同じ気象変化に遭遇したが、行程毎に地元の経験豊富な案内人を配したことで、吹雪の中でも迷うことは無かった。第五連隊は、大隊長のプライドから田茂野木部落の案内人を拒絶した。徳島大尉がリーダーシップを発揮し、雪中行軍が成功したのは、大尉を信頼する部下の協力と、大隊長との信頼関係があったればこそだ。

 後の世で、第五連隊遭難の原因を推測することは容易だ。しかし、先のことが分からないのが、この世の常だ。吹雪の山中を彷徨するごとく、人は道標の無い道を歩かなければならない。「最悪に備えよ」とは危機管理の要諦だが、気象の急変のみならず、想定外の事態は何時も突然訪れる。例え、備えが間に合わずとも、「命を心配する必要がない」と腹を括れば、気持ちに余裕が出来る。その僅かな心の余裕が、その時点で「最善と思える判断を可能にする」と信じて生きてきた。若い時代の鉱山体験は、高齢期を迎えても身体に染みついている。

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