伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2017年1月4日: 二口峠と伝蔵荘 T.G.

(磐司岩)

 パソコンの写真フォルダーを整理していたら、二口峠と伝蔵荘の写真を見つけた。Sak君が一昨年奥方と歩いたときの写真で、送ってくれたものを忘れていたのだ。実に懐かしい。

 二口峠は仙台と山形を結ぶ古い街道の中間地点にある標高千メートルの小さな峠で、その直下の谷底に山形営林署の小さな山小屋が建っていた。本家伝蔵荘である。我らが伝蔵荘はこの名前のいわばパクリである。卒業以来50年、この懐かしい峠道を歩いたことがない。当然現在の本家伝蔵荘も見たことがなかった。

 大学の4年間、四季折々この峠道を何度も歩いた。仙台側の本小屋から山形側の立石寺で有名な山寺駅まで、約15キロ程の道のりである。緑深い渓谷沿いの美しい山道だった。写真は磐司岩である。仙台側のバスの終点、本小屋から歩き出すとやがて頭上に見え始める。谷の左岸に高さ100mの垂直な柱状節理の岩壁が数キロにわたって続いている。実に見事なランドスケープである。東京近郊なら一大観光地になってケーブルカーが出来たに違いない。

(二口峠)

 トレイル中間地点の二口峠から仙台方向を振り返った景色である。遠くに磐司岩の先端が見ている。下から登ってくるつづら折りの自動車道路は昔はなかった。我々が卒業した後の昭和40年代、開発ブームに乗って無理やり通した。観光目的だったと言うが、ブルドーザーで無理やり切り刻んだ道路は、法面がしばしば崩壊し、今では通行不能になっているという。それゆえ50年ぶりに訪れたSak君達も、昔と同じように歩かざるを得なかった。壮大な国土破壊と無駄遣いである。高度成長期のあの頃は、公共投資の名を借りた、こういう無意味で無駄な乱開発が日本全国至る所で行われていたのだ。

(本家伝蔵荘)

 峠の手前を約1キロ程下った谷底の台地に、本家伝蔵荘が建っている。ちょうど峠から俯瞰した写真の右下方向である。50年前は周囲の木が小さく、開けた台地にぽつんと建っていた記憶だが、写真を見ると森に埋もれた山小屋である。半世紀の時の流れが実感できる。小屋のたたずまいそのものは昔と変わっていない。入り口に「翠雲荘」と言う表札がかかっている。我々の頃の表札は伝蔵荘だった。なぜ名前を変えたのか分からないが、我々にとってはあくまでも昔懐かしき伝蔵荘である。当時は入り口の手前にドラム缶の風呂が置いてあって、薪で湯を沸かして入ったことがある。水は小屋の裏手の谷川から布バケツで運んだ。

(伝蔵荘内部)

 入り口から入った伝蔵荘の内部である。二坪ほどの土間と板敷きの上がりがまちの雰囲気は50年前とまったく変わっていない。壊れかけた薪ストーブが新しくなっていることと、ガラス窓になっているところが違っている。昔の窓は板張りのめくら窓で、支え棒で押し上げて明かりを入れた。
 大学2年の春休みに、先年亡くなったWAさんとGP生君と3人で10日間ここで過ごした。山寺側から入って、10日分の食料で50キロほどにも膨れあがったザックを担ぎ、猛吹雪の峠から下りるのに、胸まで浸かるラッセルをした。伝蔵荘は丈余の雪で埋もれていた。雪で塞がった入り口を掘り起こすのに苦労した。

 小生は何か用事があって1週間ほどで山を下りたが、WaさんとGP生君はさらに1週間居続けた。昼間は神室岳など周囲の雪山を歩き回り、夜は真っ暗な小屋の板敷きにシュラフを並べ、ローソクの光であれこれ語り明かした。Waさんに恋人が出来たこと、GP生君が単位を落として片平丁に進級できなかったことなどなど。小生が何を白状したかは憶えていない。いろいろな青春の想い出が詰まったこの1週間の伝蔵荘生活は、今でも忘れられない。オマージュというか、この時の想いが後に今の伝蔵荘を建てる動機に繋がった。

(二口市有林の由来)

 小屋の傍らに「二口市有林の由来」という案内板が立っている。平成14年に山形市が立てたもので、いろいろ由来が書いてある。それによると、伝蔵荘(現在の翠雲荘)は江戸時代の番所跡に、昭和33年に山形市が建てた造林管理小屋で、名を翠雲荘(通称伝蔵小屋)と命名したと書かれている。そんな馬鹿なことはない。我々が訪れた昭和35年頃は、伝蔵小屋ではなく、確かに「伝蔵荘」という標識が掲げてあった。この立て看板は、山形市の若い役人が自分が生まれるよりはるか前のことを人づてに聞いて、いい加減な情報を元に書いたのだろう。二口峠の名の由来の説明も、50年前に我々が聞いていた話とまったく違っている。こうやって昭和は遠くなるのだろう。

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