伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年12月4日: 数学という学問の日米の差 T.G.

 今年も数学教室の同窓会から同窓会誌が送られてきた。例年より頁数が多く、内容も充実している。先日の瑞鳳会で同窓会の話が出たが、同じ理学部でも地学専攻のMiさんには教室や同窓会から何も連絡がないという。それに比べると数学科は盛んな方である。

 その同窓会誌に、昭和31年卒の竹崎正道氏の「海外生活37年間の経験」という同窓会記念講演が載っている。アメリカと日本の純粋数学に対する価値観、社会的認知の違いに触れていてとても興味深い内容である。総じてサイエンスを軽視する日本人と日本社会への警鐘、提言になっている。同窓会の記念講演にはもったいない内容で、日本の大学関係者や文科省の役人に聞かせたい話だ。

 竹崎氏は学部卒業後の1968年に渡米されている。ちょうどベトナム戦争真っ盛りの頃で、アメリカ社会の混沌とした状況から話を始められている。専門はフォン・ノイマンに始まる作用素環論で、渡米直後はペンシルバニア大学で研究に当たられた。その後70年代初めにカリフォルニア工科大学(UCLA)に赴任され、2005年に帰国されるまで37年間、アメリカでの研究と数学教育に携わられた。研究成果である富田-竹崎理論は、世界の数学界で作用素環論の重要なマイルストーンとして扱われている。今では現代数学の世界的権威の一人となったフランスのアラン・コンヌとの、在米中の交流や共同研究などを楽しそうに語りながら、アメリカ(欧米といった方がいいか)と日本の数学や文化の違いについて、いくつかの示唆的なエピソードを挙げられている。

 氏によれば、「日本では数学は物好きの遊び事」と見なされがちだが、「アメリカでは純粋数学は米国文化を下支えする学問」と見なされており、社会的に重んじられている。日本ではまず例がないが、大学の学長、学部長を務める数学者も少なくない。必然的に数学を専攻する学生数も多いが、卒業生は引っ張りだこで、就職に困ることはない。たとえばUCLAにおける2015年度の数学専攻の卒業生は460名もいるが、各方面から求人が殺到し、そのため小中高校の数学教師が足りなくなるほどだという。この数字を我が東北大学と比較すると、2015年度の卒業生は10分の1のわずか43名。そのうち大学院進学を除く就職者数は、高校教員3名を含めたったの7名に過ぎない。人口の違いを勘案しても少なすぎる。アメリカに比べて数学という学問がいかに社会に受け入れられていないか分かる。

 竹崎氏はこの違いを、ギリシャ時代から連綿と続く西欧文明の伝統ではないかと推察する。その例として、プラトンの「幾何学を解さざるものこの門をくぐるべからず」、ガリレオ・ガリレイの「神は数学の言葉で天地を創りたもうた」、デカルトの「我思うゆえに我あり」、パスカルの「人は考える葦である」などを挙げられている。これらから分かるように、西欧人は純粋で抽象的な論理思考の大切さ、社会的意義を認識していて、その究極の学問である数学を社会の土台と考えている節がある。それと比較して、日本では数学者ですら数学が日本文化の下支えをしているという認識に欠けると嘆く。

 西欧社会の数学の扱いの好例として、竹崎教授の教え子の研究者が、銀行の通貨に関するプロジェクトチームの責任者としてヘッドハンティングされたケースを挙げている。「作用素環論の研究者で、通貨のことなど何も知らない。なぜ私のような門外漢の素人を求めるのか」聞くと、「先生の専門分野はきわめて抽象性が高いので、通貨に関する理論など未だ五里霧中の今の時期に、抽象数学で培った先生の能力をぜひお借りしたい」と答えが返ってきたという。結局は断ったそうだが、数学者のフォン・ノイマンが原爆開発やコンピュータ開発で重きをなした例を思い起こさせてくれる話である。同じような例はほかにもたくさんあり、数学科の学生は将来が大きく開かれていて、就職に困ることはないという。就活で一般企業に相手にされない日本の数学科とは大違いだ。

 話は逸れるが、今日社会で最重要な技術製品であるコンピュータは、その基本原理をエンジニアではなく数学者に依存している。コンピュータの基礎的アーキテクチャはイギリスの数学者アラン・チューリングが考案し、コンピュータをコンピュータたらしめている重要なアイデア、プログラム内蔵方式は、アメリカの数学者フォン・ノイマンが考案した。スマホからスパコンに至るまで現在のコンピュータは、二人の数学者のアイデアの上にマイナーチェンジを積み重ねただけと言って過言でない。コンピュータはこの二人の天才数学者がいなければこの世に出現しなかったのだ。

 話を戻すと、竹崎氏はパラドキシカルな事も書かれている。2005年に帰国して驚いたのは、日本には高い水準の数学専門書が実に多様にあることだと言う。こんな国はほかにはない。この数学の裾野の広がりは、日本の数学が世界水準にあることの証左だという。竹崎教授が1979年にアメリカで「Theory of Operator-Algebras」を出版したら発行部数2千部だったのに、1983年に同内容の「作用素環の構造」を岩波から出版したら初版で1800部、その後増刷が続いているという。世界市場を相手にした英語の数学書と、日本語で書いたより専門性の高い書物がほぼ拮抗している。このことから日本の数学専門書の市場の大きさに驚かされたという。この現象を見て、明治以来の日本の文明開花路線が決して西洋に劣っていないことを実感されたという。

 数学のレベルは劣っていないのに、アメリカに比べて日本社会での扱われ方が不当に低い。米国ではスプートニクショックなどで科学振興の大号令がかかったとき、真っ先に手をつけるのは大学の数学教育で、毎年千人単位のPh.D育成が行われた。数学が高度科学産業で果たす役割を理解しているからだ。米国の科学振興政策は、数学者を含めた米国の科学エリートの集まり、National Academy of Sienceが政府に出す勧告や助言を元に決められる。翻って日本の学術会議は、政府に煙たがられるだけで政策に何の影響力もない。数学のレベルの高さ、知的市場の広さにも関わらず、それが政府の産業振興に生かされない現実をどう説明するか、竹崎氏はいまだに結論が出ていないと結ばれている。

目次に戻る