伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年11月29日: 哀感・喪中葉書 GP生

 毎年11月半ばを過ぎる頃、喪中葉書が届くようになる。以前は、祖父母の訃報が多かったが、年を経るにつれ両親になり、兄・姉に変わってきた。順番と言われれば、そうかもしれない。逝去された年齢も、年々高齢化しているようにも思える。最近、相次いで届いた2通の喪中葉書からは、しばらく目が離せなかった。去来する想いに哀感胸に溢れた。1通は、大学時代の友人Na君の訃報だ。他1通は、鉱山時代の戦友であり、上司でもあったMaさんの訃報だ。共に、今年3月の逝去とは、偶然に一致だろうか。

 Na君とは、大学受験時に宿泊した旅館で、同室になったのが縁で付き合いが始まった。1学年終了時、春休みに、二人して九州一周旅行をしたことは、忘れ得ぬ記憶だ。鉄道は、学割周遊券を利用した鈍行列車、宿泊は九州の各大学寮の無賃利用であった。最初の宿泊は、紀伊半島の田辺市にある彼の実家で、最終宿泊地は、ワンゲル同期・Ik君の神戸に在る実家であった。神戸駅に着いた時、財布の中身は僅か100円。駅から電話をしてIK君が不在であれば、次の列車で帰るつもりであった。幸い在宅していて、神戸駅まで迎えに来てくれた。このIk君も既に居ない。

 Na君との九州旅行は10日に及んだ楽しいものであった。貧乏学生の二人にとって、食事を如何に安くあげるかが、喫緊の課題であった。霧島山にも登った。この時の宿泊地は、小林市の種畜牧場主の家であった。大学の地学・Oi先生の実家であった。厚かましくも先生にお願いをした。学生のわがままが許された良き時代であった。熊本でNa君が風邪を引いて寝込んだこともあった。噴火前の雲仙岳の樹林は素晴らしかった。小柄なNa君は積極的な性格だが、自分に無いものを多く持っていた。長い二人だけの九州旅行中、以心伝心の行動であった。諍いなどとは全く無縁であった。所謂、気が合った仲間としか言い様がない。在学中、ワンダーフォーゲル部に傾倒した自分は、学内でNa君と深く付き合うことは少なかった。

 Na君は、工学部精密工学科を卒業して精工舎に就職した。対州鉱山に就職した自分は、距離の遠さと仕事への傾注から、Na君と会うことはなかったが、心のどこかで、「彼はどうしているか」との想いは持っていた。爾来50年、年賀状の付き合いが続いた。彼は、柏市に住んでいたので、会える機会があるだろうと、高を括っていたのが間違いだった。だから、「本年三月三十一日 夫が享年七十六歳にて永眠いたしました」との文面から目が離せなかった。今の自分には76歳のNa君の姿は想像できない。九州での溌剌とした彼しか思い出せない。彼とて、同じ事だろう。

 思い切って、奥様に電話をした。お悔やみを申し上げると、奥様は、Na君から自分との関係を聞いていた様で、初めての会話とは思えないような長電話になった。電話口で涙ぐんでる様子の奥様の気持ちを思うと、自分の心も濡れてくるのを覚えた。76歳とは、自分と同年だ。面倒なところにできたガンが、検査で見つかった時には、既に手遅れであった。治療は気休めに過ぎなかった様だ。苦しまず静かに、この世を去って行った事は、せめてもの救いであったと思う。それにしても、Na君とは生前に会いたかった。会うことをかまけた自分を責めている。

 対馬に在った対州鉱山は、雁行する多くの鉛・亜鉛鉱脈が連なっていて、鉱脈毎に坑場が設けられていた。最大の鉱脈を有したのが日見坑であった。当時、全山の7割近くの出鉱と高品位を誇っていた日見坑は、対州鉱山の要であった。自分が1年間の見習期間を経て、配属されたのが日見坑であった。当時、Maさんは上部坑場の主任をしていた。鉱山の採掘場は、鉱石を求めて次第に深部に移動していく。当時、マイナス350mまで開発が進んでいた。鉱山は、経済的に採掘できる鉱石を全て採掘し終えたら、閉山を迎える事になる。再生産ができない鉱山の宿命だ。自分が仕事に就いたときは、日見坑の最盛期であり、下請けを含め多くの男たちが働いていた。

 時の経過とともに、高品位鉱石が少なくなり、採掘が難しい残鉱石にも手をつけざるを得なくなった。同時に鉱山災害も多くなってきた。そんな時期に、日見坑の責任者である係長に抜擢されたのがMaさんだった。Maさんは叩き上げの苦労人で、学卒の坑場主任である我々の統率には神経を使ったようだ。それでも、下り坂の鉱山を何とかしようとMaさんを中心にまとまり、生産を維持したものだ。自分の職場から坑内火災を起こし、操業を十日間に亘り止めた時も、鉱山救護隊の責任者であったMaさんは、酸素マスクを着け消火活動の先頭に立っていた。職場での困った事の相談にもよく乗ってくれた。相談事のほとんどは職場の人間関係であった。自分は、鉱山閉山の一年前に転勤となった。それまでの数年間、苦しい時期にMaさんと共に汗をかいた記憶は忘れられない。

 転勤後、Maさんとは一度も会うことはなかった。閉山時の厄介事を先頭になって処理したとの話は、転勤先の職場にも入ってきた。閉山により職を失った男達の処遇が最大の難事であったろう。潜在していた問題が閉山で一気に吹き出したとも聞いた。職場で苦労した仲間や同僚たちの苦難を聞くたびに、一年前に転勤した自分に、後ろめたさを覚えたものだ。

 今年の年賀状の写真は、病床に横たわり、酸素マスクをつけたMaさんの姿があった。当時の面影は無く、見る影もなくやつれきった姿であった。あまりの姿に驚いたが、別れの知らせであったのだろう。その三ヶ月後にMaさんはこの世を去った。写真を見て、長くない事はわかっていても、「三月に 夫が八十五歳にて永眠しました」との文面に接すると胸が湿ってくる。若き日にお世話になった感謝を込めて、ご冥福を祈りたい。

 祖父母のご逝去から始まった喪中葉書も、近年、「当人」に至ってしまった。鉱山時代の管理職であった、部長、課長クラスは既にいない。年に一度の鉱山親睦会の出席者も次第に数少なくなってきた。最年少が60代半ばを過ぎたのだから仕方ないことだ。かっての戦友会同様、鉱山親睦会も会員減少により何れ消滅の憂き目を見ることだろう。

 喪中葉書は人生最後の連絡であり、例外はあるにしても、当人逝去の知らせを持って、長年の交誼は終わりを告げることになる。人生のある時期、苦楽を共にしたり、胸襟を開いて付き合った記憶は、時を経ても心に残っている。彼等、彼女等の存在は、自分が生きてきた証でもあるのだ。だから、喪中葉書の文面に心を奪われ、哀感の想いに心が塞がれるのだろう。自分の生命がいつ終わりを告げるかは分からない。長く生きれば生きる程、毎年この時期に届く喪中葉書に哀感を覚える事になるだろう。

 自分の書く年賀葉書も毎年減少傾向だ。自分も後数年は書けるにしても、それが、何時まで続けられるかは誰も分からない。

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