伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年11月19日: 人間は歴史に対して神の立場にある。 T.G.

 年に二回の瑞鳳会OB会をいつもの新宿樽一でやった。学生時代に瑞鳳寮で寝食を共にした仲間である。集まったのは6人。80歳のAさんを筆頭に全員後期高齢者である。樽一の鯨料理と浦霞の純米吟醸で話が大いに弾んだ。話題の一つに、東北大震災の津波で多数の小学生が亡くなった大川小訴訟判決の話が出て、議論が白熱した。遺族の訴えに対し、仙台地裁が市と県に約14億円の損害賠償を命じた件である。酔うに連れ議論が熱くなるのは、瑞鳳寺の薄暗い食堂で、車座になってコップ酒で盛り上がった昔のコンパと雰囲気がまったく変わらない。65年前のあの頃に戻ったようだ。

 酔っぱらい同士の議論だから理路整然としたやりとりではないが、要約すると次のようである。賛成派は、「なんと言っても生徒は学校の管理下に置かれている。その管理下で74人もの多数の小学生が亡くなった事実は重い。可愛いわが子を亡くした遺族の心情は痛いほど分かる。学校側の管理責任を問うのは至極当然だ。学校側が生徒を事前に校庭に集めて待たせ、すぐに避難させなかったこと、裏山に高台があるのにより低い場所へ避難させたことは業務上の過失と言われても仕方がない。その証拠に、ほかのより適切な処理をした学校ではこれほどの多さの犠牲者を出していない。学校側が管理責任と賠償責任を負うのは当然のことだ。」

 これに対し小生を含めた反対派は、「亡くなった生徒が哀れなことに異論がないが、生徒だけが死んだわけではない。誘導に当たった先生方も10人亡くなられている。学校側が避難誘導を怠ったわけではない。避難させた場所より大きな津波が来てしまったことは不幸だった。今となっては学校側の避難誘導が不適切であったことは否めないが、それは結果論である。千年に一度の津波の大きさは、大川小の先生方だけではなく、気象庁を含めすべての日本人が予測できなかった。にもかかわらず、もっと高いところへ避難させなかったことを、賠償責任を伴う過失と決めつけるのはやり過ぎではないか。先生方は混乱の中で最善を尽くしたが、現実がそれより過酷だっただけだ。もしこれを過失というなら、1万人を超える多数の津波死者のほとんどが、自己責任の過失だったことになる。」

 整理して言うとこうなるが、議論が最後まで対立したわけではない。同じ年代の孫を持つジジイにとって、幼い小学生を哀れに思う気持ちは共通している。この議論の最中に、「日米開戦と情報戦 (講談社現代新書) 」と言う今月発売の新刊本を思いだした。アゴラに池田信夫氏が書評を書いているが、その冒頭で次のようなことを言っている。「著者(森山優氏)が書いているように、われわれは歴史に対して神の立場にある。現代の価値観を戦時中に投影して、超越的に「慰安婦問題の本質は女性の人権だ」などと日本軍を裁いても、歴史から何も学ぶことはできない。そういう非歴史的な結果論ではなく、当時の人々の立場で考えることが大事だ。」と。

 まったく同感だ。つい先日も、世界中の識者やマスコミがヒラリーを予想した。しかし今では子供でもヒラリーではなくトランプであることを知っている。後世の人間は歴史上の出来事を何でも知っている。まさに歴史に対して神の立場にいる。大川小の先生方が津波の高さを正しく予知できず、それより低い場所に避難させたのが間違いだったことを、後日の我々は知っている。生徒をただちに避難させず、校庭に集めて時間を無駄にした愚かさを知っている。我々が歴史に対して神であるからだ。戦前の慰安婦がいた時代に、女性の人権という価値観はなかった。売春という商行為と認識していた。それに対して、女性の人権と言う後世の価値観を持ち出して慰安婦問題を論評するのは、無意味を通り越して偽善である。神の立場の濫用である。

 池田氏は書評でその点を次のように書いている。
「日米開戦についても、満州事変に始まる「15年戦争」として日本軍の一貫した侵略戦争だったという歴史観がある一方で、「コミンテルンの謀略だ」という類の陰謀史観もある。本書も示すように現代の歴史学ではどちらも問題にならないのだが、自分の立場を補強するために都合のいい事実だけを拾い上げる人は多い。」

 著書の内容は太平洋戦争時の日米情報戦について書いたもので、戦争の経緯をつぶさに知っている後世の人間が、後の世の価値観でああだこうだと勝手な解釈、論評をすることを戒めている内容らしい。面白そうな本なので、さっそく市の図書館にWeb貸し出しの申し込みをしたが、まだ蔵書になっていないらしくヒットしない。さっそく本屋で買ってこよう。

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