伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年8月6日: 都知事選に見る老人達 GP生

 何歳から老人というのだろうか。一昔前は60歳以上の男女を老人と呼んでいた。老人福祉法では65歳以上を老人と定義されている。前期、後期と便宜的に区別をされているが、健康保険では70歳以上が高齢者だ。中年以降、何らかの病を得た友人達は、70歳前にこの世を去っている。70歳から75歳の間は微妙な時期に思える。この間を乗り切ると、元気な老人の部類に入るのかも知れない。

 この度の都知事選で注目された老人は、何と言っても鳥越俊太郎76歳だろう。彼のとんちんかん振りは、最初の記者会見で発揮された。「昭和15年生まれだから、終戦時は20歳」、「選挙公約は癌検診100%実施」は有名だ。ネットには、彼の語録が面白おかしく揶揄され掲載されている。鳥越は、巣鴨での街頭演説で名を売った。本人が喋ったのは、応援弁士の森進一を紹介した1分足らず。森の話が終わると、さっさと次ぎの会場に移動した。炎天下で鳥越俊太郎を待っていた年寄り達が怒って詰め寄る映像は、鳥越の本性を残酷にもあぶり出している。ボロが出るから、テレビの討論番組は逃げて回り、語る度に支持を落とす体たらくだ。

 こんなお粗末な人物を担ぎ出した野党4党の責任は大きいが、哀れを留めるのは、鳥越俊太郎本人だ。週刊誌に報道された女子大生に対する淫行疑惑の裁判がこれから始まる。判決はどう有れ、彼の14年前の行動が法廷で白日の下にさらけ出される事になる。しかも文春、新潮それぞれの法廷でだ。被害者の女性と彼女の夫と3人で話し合ったことは認めていながら、淫行は事実無根は通らない。記者に、何を話したかを問われ、答えは意味不明の言葉の羅列で、しどろもどろだ。こんな体たらくで、裁判に勝てると思って提訴したのだろうか。有名弁護士を巻き込んでの裁判故、訴訟費用とて半端ではないはずだ。都知事候補として都民に説明する前に、家族に対する説明を如何したのだろうか。先日、小学校の同級生の女性と、この話をしたら、彼女は「自分だったら夫を絶対許さない。即離婚だ。」と言っていた。他人ごとながら家庭内が心配だ。

 彼は、間違いなく晩節を汚した。都知事選に立候補しなければ、宇野内閣を葬った高名なジャーナリストとして、人生を真っ当出来たのに、立候補により下劣な品性を衆人の目にさらした。昭和35年の岸内閣安保反対運動の時代の政治思想を持ち続け、「反安部、反安保、反原発」をスローガンにして、見当違いの都知事選挙に立候補した。自分なら当選できると自負したのだろうが、化けの皮がはがされ、暗い晩年が約束された。彼は、76年の人生に空しさを覚えないのだろうか。そのような思考力はすでに消失しているのかも知れない。

 増田寛也の立会演説会で応援演説をした、石原慎太郎も晩節を穢した老人の一人だ。現役の頃の慎太郎なら、「大年増の厚化粧」発言も、慎太郎節として聞き流されていたかも知れない。それが83歳の老人が、覇気の無い声で発すると嫌みにしか聞こえない。本人は現役時代の気持ちで喋ったとしても、皺だらけの顔から出る老人特有の様相と言葉は、人の心に不快の思いしか抱かせない。自民党の女性達に背を向けられ、小池百合子からは当意即妙に、「薄化粧で参りました」と切り替えされた。慎太郎を引っ張り出した、息子伸晃のの責任は大きい。あげく、公衆の面前で60歳になろうとする伸晃に対して「息子も苦労している」と場違いな親ばか振りだ。慎太郎老いたりだ。

 老人の範疇には入らないが、伸晃の政治家としての無能さは目を覆いたくなる。伸晃が自民党候補者としての小池百合子を排除したのは、小池では思うとおりの都政が出来ないとする、「ドン内田茂」の意を忖度した結果だ。党員締め付けの文書が表沙汰になったり、「今日を以て自民党の人間ではない」と絶叫したり、する事が児戯に等しい。やること為すことオウンゴールだ。先の読める政治家なら、万が一小池百合子が勝利した場合を考えて手を打っていだろう。官邸がそうしたように。所詮、伸晃は内田の手のひらで踊るだけの存在だ。都連会長辞職を持って、伸晃の政治生命は終わりだ。辞任の弁にしても、幹事長への責任転嫁を思わせる発言し、後にそんなことは言っていないと否定する始末だ。

 自分が住む杉並は、石原伸晃の選挙地盤だ。政策新人類として活躍していた頃の伸晃は輝いていたし、将来を嘱望されていた。地元では人気があった。常にトップ当選だった。自分も「石原伸晃」に一票を投じてきた。今の伸晃は地元でも輝きは無い。これが自民党総裁選に、明智光秀と言われながら立候補した男の末路だ。次の衆議院選では、一票を投じる気持ちは消え失せた。引退を願っているが無理だろう。

 都知事選とは直接関係ないが、小池百合子当選時、遙かリオデジャネイロでインタビューに応じた森喜朗の顔が忘れられない。東京オリンピック開催で、小池都知事との協力を聞かれた森喜朗は、憮然とした表情で「小池次第だ」と答えた。森が東京五輪組織委員会会長であるにしても、2020年東京五輪の開催主体は東京都だ。かって森の派閥清和会に属した小池百合子が、森の反対を押し切って自民党総裁選に立候補した。自分の意に逆らった小池への憎しみを、森が持ち続けているとの観測がもっぱらだ。テレビで森喜朗が「小池」と呼ぶときの憎々しげな感情が、画面一杯に溢れていた。政党という村社会の中での人間関係ではあるにしても、公の場で、その感情を表すとは。器の小さもさることながら、老化の進行の然らしめる結果かも知れない。人は歳を取ると、自分の感情をコントロールするのが苦手になるものだ。思考も柔軟性を欠くことになる。御年79歳の森喜朗の顔は老醜に満ちていた。4年後は83歳だ。若者の祭典に老人は似合わない。

 都知事選に関係した老人達に共通するのは、夜郎自大だ。自分が世間からどのように見られているかの自覚が無い事だ。過去の実績の結果、現在があるにしても、名前の上に胡座をかき、世の中は自分の思う通りに動かせると錯覚して生きているように思える。時の経過と共に、老人達の過去を全く知らない世代が増え続けていることを、知らねばならない。彼等からすれば、隠居世代の爺が、上から目線で何を言っているのかとの思いだろう。

 小池新都知事の初登庁に際して、自民党都連幹部が示した対応や、議長、副議長の小池知事や記者他に対する無礼極まりない応対は、マスメデイアでも児戯にも劣る行為として報道された。自民党のホームページは炎上した。高齢の自民党幹部連中は、世の流れに背を向け、ボスに顔を向ける旧態然とした村社会の実態を露わにした。これはでは、来年の都議選でしっぺ返しを受ける事になるだろう。

 新聞報道が世論を先導する時代は去ったようだ。ネットは玉石混合の内容であっても、表報道では決して見られない真実が語られている。ボス内田茂の実態は猪瀬直樹元知事が、都議の自殺という衝撃的事実を、証拠の遺書を添付してネットに流した。動機は私憤であっても、情報は瞬く間に拡散した。文春は8月3日号で、都庁の闇の力特集を組んだ。内田は賢明にも黙して語らずだ。「ブラックボックスは光が当たれば魔力を失う」とは、ホラー映画だが、内田魔力も何れ力を失うだろう。彼も77歳だ。引退が順当だが、まだ醜態を曝し続けるかも知れない。メディアの集中砲火は続くだろう。

 世に名の知れた人達が発する言葉は、その時の映像と共に消えることが無い。テレビは、彼等のスキャンダル報道の口火を切ることは無いが、ネットや週刊誌が火をつければ、映像を繰り返し放映し、その後は煽りに煽る。慎太郎や森喜朗、内田茂等はネット世代では無い。ネットの怖さに実感が無いのだろう。自称ジャーナリストの鳥越俊太郎にしても、情報の拡散と反応が、一昔前と異なることの自覚は無いのかもしれない。「昔の名前出て出ています」が通用するのが、限られた世代に過ぎないことに、考えが及ばなかったのだろう。

 しがない、賃貸マンションの経営をしている自分にしても、世の中の価値観の変化に戸惑うことも多い。20代30代のカップルが賃貸住宅に何を求めているを知り、内装や設備に対応しなければ、空き室が増加する。入居している若い世代との意思の疎通も不可欠だ。大家然としていれば嫌われること必定だ。機会あるごとの会話は必須である。昭和15年生まれの自分は、鳥越俊太郎と同年だ。先が限られている自分にとって、鳥越や森そして慎太郎の老醜は反面教師でもある。明日は我が身にならないためにも。

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