伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年7月4日: 「昔の仲間会」と白河の関 T.G.

 「昔の仲間会」と称する5人組で梅雨空の新甲子温泉へ出かけた。黒磯で落ち合い、羽鳥湖から迎えに来てくれたSa君の車に乗って新甲子温泉のみやま荘へ向かう。途中、平成の森フィールドセンターに立ち寄り、小雨に濡れた山道を駒止の滝まで歩く。

 昔の仲間会は仙台二高の同窓生の集まりである。そこへ千葉一高の小生が潜り込み、年に一回温泉宿に泊まって50年来の旧交を温める。理学部の小生以外はみな経済学部、文学部などの文科系である。帰宅後、俳句好きのKu君からこの旅行の際に詠んだ発句がメールで送られてきた。いずれもなかなかの秀作である。その連作6句を以下に。

  古傷に優し青葉の露天の湯

 昔の仲間会メンバーは全員後期高齢者である。大学を出た後、みな東京でサラリーマン生活を過ごし、現在はリタイアして悠々自適の年金生活を送っている。電車や車に乗って温泉に出かけられるくらいだから、健康寿命もまだ来ていない。健康寿命とは、食事、入浴、排便などの日常生活に特段の介護を要しない状態を言うらしい。

 句を詠んだKu君は多賀城の出で、リタイア後故郷に戻り、東北大震災に遭った。あの日はちょうど車で出かけていて、津波が道路の反対側まで押し寄せたという。多賀城だけあって、まさに「末の松山、波越さじとは」である。梅雨空のみやま荘の露天風呂はしっとり落ち着いた雰囲気で、夕食前にのんびり浸かっていると、誰しも過ぎ去りし昔のことどもがしみじみ想い出される。中には少々胸が痛む想い出もある。彼の古傷はいったい何だろう。

  真相がまた明かされて夏の宴

 昔の仲間会の醍醐味は、Ha君が言うように気の置けない仲間同士の、言いたい放題の会話のやりとりである。50年来の付き合いだから、言いたい放題に見えて適当な距離感はある。中には小学校時代の友達関係もあって、お互いのことを何でも知っている。昔の古傷に触れるようなやりとりもあるが、気分を壊す程にはならない。夕食を終えて部屋に戻って寝るまで、そういう心地よい会話が続く。今回明かされた真相が何だったか、酔いが回っていて憶えていない。どうせ今までに何度も出た話だろう。

  老いどちに手ごはき宿の夏料理

 食事時の話題はもっぱら老人最大の関心事である健康と食生活と薬の話である。後期高齢者の食は細い。安宿の素朴な献立なのに、出された料理を全部食べきれない。残してしまう。老化で新陳代謝が衰えているゆえだろう。食後、Ha君が薬の錠剤をどっさりテーブルに出す。彼ほどではないが、後期高齢者は誰しも薬を飲まされている。高血圧、コレステロール、糖尿、尿酸値などの薬である。Ha君はそれに睡眠導入剤が入っている。飲まないと寝付けないのだという。不眠と便秘は典型的な老化症状である。

  黴の宿終活かたる友のゐて

 Ok君が今までに撮り溜めた大量の写真の始末に困っている。どうしたらいいかという。いわゆる終活の話である。確かに家族や友人が写っている写真を破いて捨てる気にはなれないし、燃やすわけにもいかない。カメラが趣味のSa君が、デジタル化してUSBメモリにでも入れて捨てたらどうかとアイデアを出す。そうしたとしてもゴミ回収車に出す際は気が咎めるだろう。15年前に家を建て替えたとき、引っ越し荷物をクローゼットに押し込んでおいたが、半分以上は手をつけず、15年間そのままである。おそらく死ぬまでそのままだろう。どうやって始末するか、考えただけで憂鬱になる。ご多分に漏れず墓の話が出る。どんな立派な墓を作っても、子や孫が檀家料や管理費を支払わないと無縁墓地として始末され、遺骨は産業廃棄物にされてしまう。さてどうしたものか。そんな話で夜が更けた。

  能因の歌碑梅雨寒の関所跡

 翌日、新幹線で仙台方面へ向かうHa君と新白河駅で別れて白河の関を見に行く。訪れるのは小生は初めてたが、有名な関所跡は狭い谷間のこんもりした丘の上にあった。こんな所に関所を置いていたとはとても思えない。平安時代に作られた白河の関所は、江戸時代に芭蕉が辿った頃はすでになかった。今の場所は後の推察だという。それゆえか、白河の関に誘われて芭蕉が辿ったはずの奥の細道に、白河の関自体を詠み込んだ句はない。有名なのは平安時代に能因法師や平兼盛、梶原景季が詠んだ和歌で、関所跡前に歌碑が建っている。

  老鶯の群魂や白河の関

 白河関所跡の近くの公園に、芭蕉と曽良の像と句碑がある。刻まれた曽良の句「卯の花をかざしに関の晴着かな」には関所が登場するが、奥の細道に書かれている有名な芭蕉の句「風流の初やおくの田植うた」には関所は出てこない。この句はもっと手前の須賀川あたりの田植え風景を詠んだものだという。芭蕉があれほど引かれて、奥の細道を辿る動機にもなった白河の関が詠まれなかったのはどういうわけだろう。

 白河の関のあと、有名な白河ラーメンを食べに行く予定だったが、食が細くなった老人にはまだ昼食時間になっていなかったので、Sa君の車で新白河駅まで送ってもらい、昔の仲間会はお開きになった。Ku君が言うところの「我々にとって今はまさに余生の真っただ中のゾーンにあるわけで、このように楽しく妖しい果実を味わえるのこの会」が、来年もなにとぞ一人も欠けずに出来ますように。

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