伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年5月13日: 司馬遼太郎著「ひとびとの跫音」
         へのメモランダム U・H

 まことに恥ずかしながら書店で本を買うという習慣も乏しく、これまでの生涯に読んだ本も極めて少ないのだが、司馬遼太郎と池波正太郎だけは愛読してきた。司馬遼太郎の全著作を網羅する日ももう間もなくである。司馬遼太郎の膨大な著作の中で「坂の上の雲」を読んだ人は相当に多いことだろう。読まなくてもNHKのTVドラマなどもあったから、興味を抱いた方は少なくないだろう。では同じ司馬遼太郎による「ひとびとの跫音(あしおと)」という小説を読んだことがあるだろうか。

 司馬遼太郎は、四国・松山出身の秋山好古、真之兄弟、および正岡子規を中心に据えた小説「坂の上の雲」を書くことによって、明治日本の国民国家における風景を、その独特の視点から描き出した。司馬は自らの大事な青春時代を兵隊に取られ、世界の水準から取り残された棺桶のごとき戦車に乗る身となり、日本は何故に現実認識のない愚かな戦争に突き進んだのか、そうした問題意識に基づいて戦後に執筆活動を続けた。司馬は、昭和日本を破滅に導いた陸軍官僚の愚かさを弾劾する一方で、その導火線が日露戦争の勝利に酔いしれ、続いて大陸へ進出を図ることを望んだ国民意識に端を発していることを看破しているが、他面 維新によって導かれた明治の国民国家の健康な明るさや嗜みを評価してもいる。

 司馬は「坂の上の雲」の一方で、「ひとびとの跫音」という、まことに地味な小説を書いているが、そこには正岡子規の死後養子となった正岡忠三郎、忠三郎と旧制二高で友人だった西沢隆二(思想家、詩人、筆名では「ぬやま ひろし」)という世間的には無名の二人とその縁辺にある人々が書かれている。司馬はこの小説を書くことを通じて何を言いたかったのだろうか。英雄豪傑でもなく、悲劇の主人公でもなく、さしたるドラマ性も感じられない二人の人生とその縁辺をまことに淡々と描いているが、前記「坂の上の雲」に連なる人々が登場し、そこに司馬遼太郎が感じた余韻のようなものが醸し出されている。

 大正から昭和への時代は、維新によって国民国家を形成し、西欧の近代文明をキャッチアップしたかに見えた我が国が、じつは市民意識の面では甚だ未成熟なままであり、やがて時代錯誤の方向へと突き進み、敗戦の憂き目を見る。そのような世の動静の中で、必ずしも付和雷同せず、淡々と自我を貫いた人々の例として「ひとびとの跫音」が書かれたように思われる。あわせて明治以後の我が国を生きた一般人の中に流れていた、ある種の嗜みについて、記録を残そうとしたようにも思われる。

 この著作をぜひ家内に読ませようと思うのだが、いきなり与えてもあまりに取っ付きにくく、途中で投げ出すのではないかと思い、余計なことながら以下のような参考メモを書いた。はたして家内が最後まで読んでくれるか、そして感想などを聞かせてくれるか、「サンデー毎日」の身から出てきたお節介の極みとしてのメモランダムである。

 正岡 子規
 (妹)律、(養子)忠三郎
 子規の母ヤエの弟 加藤恒忠(号:拓川、外交官)の三男

注1: 忠三郎は「子規の養子」として正岡家の跡継ぎとなるべき人であるが、その手続は子規の死後であったため、戸籍上は妹、律の養子となった。

注2: 子規が上京時、叔父である加藤拓川を頼ろうとしたが、加藤の欧州赴任と重なり、加藤は友人 陸渇南(くが かつなん)に子規の面倒を頼んだ。陸は主宰している「新聞日本」に社員として子規を受け入れ、病中も執筆作品の掲載によって、その死まで面倒を見た。子規の生涯の偉業である短詩改革は、この新聞日本への寄稿を通じて果たした部分がまことに大きい。

注3: 律は子規の死去の翌年、共立女子職業学校に33才で入学、専科を経て同校の事務職、ついで家政科の教師となった。10年勤務して一旦退職、その後京都の裁縫塾にて技術研鑽をし、再度共立女子職業学校の教師を務めた。律は、子規の生前に二度嫁し、二度離縁になって、その後子規の死まで看病をした。

注4: 加藤拓川には5人の子がおり、三人が男、女が二人。長男、次男は優秀だったが長女も含めて早世した。大学生の次男の死が夫妻に大きく影響して、妻 ひさ は天理教にのめり込む。下の妹 たえ は母により天理教の学校に入れられたが反発して出奔。上京してミッション系の学校を経てシスターになった。(このシスター「ユスティチア」の手配で、忠三郎は最晩年に洗礼を受け忠三郎の葬儀は教会で行われた)

注5: 忠三郎は、体の大きな偉丈夫であったが、母親から見れば上の二人の兄に比べて見劣りがしたのか、また幼少期に渡欧している両親と離れて育てられたためか、母親の目が冷たいように感じられた。生みの親と養母 律に馴染まず、浮き世の義理は果たしつつも、行動面では離反に近い歩みを辿った。すなわち仙台の旧制二高、京都大学、阪急電鉄入社とたどり、親から離れ続けた。

注6: 忠三郎は、阪急電鉄で車掌、ついで阪急デパートで家庭用品の販売員などをして、終戦時まで勤務。その間、見合いであや子と結婚。ときに忠三郎36才、あや子26才。

注7: 「坂の上の雲」に登場する秋山兄弟の弟、真之と正岡子規は大学予備門で同級であったこともあり、両秋山家と正岡家は子の代になってもそれなりに交流が続いていた。忠三郎とあや子の結婚の仲立ちは、秋山兄弟の兄、好古の次女、土居健子さんが行った。

西沢 隆二(たかじ、思想家、詩人)

注1: 旧制二高時代の忠三郎の友人。忠三郎は留年しながらも二高を5年で卒業したが、隆二は留年超過で退学した。その後、同人誌に参加するも廃刊と同時に共産党入党、赤旗発行などに従事した。官憲に逮捕されたが、一方で仲間の中傷・告発により党からも除名処分を受けた。しかし本人は除名の身ながらいわゆる「転向」せず(党のことや仲間のことをしゃべらず)、結果終戦の年まで12年余を獄中で過ごした。

注2: 敗戦の年、獄中で徳田球一に会い、中傷への誤解が解け、党活動への復帰を促される。出所した徳田と隆二は、徳田の従兄弟に当たる画家・徳田耕作の元に身を寄せるも、まもなく耕作が持病悪化で死去する。徳田球一はその未亡人と再婚し、一方の隆二はその娘 摩耶子と結婚する。

注3: 隆二は、若者中心にダンスや音楽をするなど、共産党の文化活動を展開し、党中央委員の一人にもなったが、結局のところ党の路線と合わず、再び党を除名された。しかし除名された後も隆二の基本的思想は変わらず、「個人の解放」、「個人の確立と自由」を追求するような社会主義的な生き方を貫いた。隆二は、共産党という組織や、そこでの時流などとは無関係なところで、個として共産主義思想を貫く人生を送った。

注4: また隆二は獄中において詩作活動を行っていたが、読書は許されても筆記具や紙の所持を許されなかったので、自作の詩をすべて記憶の中に止めていた。戦後それらを詩集「編笠」として世に問うた。これは筆名「ぬやま ひろし」としての活動である。

注5: 隆二は党に在籍中は接する人へのある種の迷惑を気遣って、接触を控えた感があるが、晩年、上記忠三郎や司馬遼太郎とも交友関係が深かった。

注6: 隆二は晩年に正岡子規全集を再編することに情熱を傾け、司馬遼太郎や子規の養子 忠三郎も巻き込んで行く。

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