伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2016年4月11日: 豊かで贅沢な日本の少子化 T.G.

 散歩の途中近くの幼稚園を通りかかったら、ちょうど入園式で門前に親子が集まっている。見るとほとんどが両親に付き添われている。パパはネクタイを締め、ママは精一杯着飾って、門柱のところで代わる代わるスマホ写真を撮っている。大切に生み育てた可愛い子供がやっと幼稚園に入る。その喜びが伝わってきて微笑ましい。我々の頃と違い、今の人たちは実に贅沢な子育てをしていると言うのが率直な感想である。

 帰宅してそのことを家人に伝えたら、贅沢ではなく今はそれが当たり前な世の中なのだいう。幼稚園はまだしも、小学校や中学校の入学式ですらパパママ揃って出かけるご時世だという。そう言えば、うちの孫の小学校の入学式にも、息子と嫁の両方が会社を休んで付き添っていたのを想い出した。「そういうことが誰でも当たり前に出来るのは贅沢じゃないか」というと、「あなたの頃とは違うのよ」とにべもない。「でもね。僕らだって仕事なんかほったらかしてこういうことが出来たら、その方がよっぽど良かったが、そんな贅沢は許されないと諦めていただけだよ」と言い返したが、まあ会社の入社式に親が付いていくご時世だから、贅沢の意味が通じないらしい。

 「あなたの頃と違う」と言われても、たかだか30数年前の話である。一世紀前の話ではない。我々の時代は、父親が会社を休んで子供の幼稚園や小学校の入学式に付き添うなんて夢にも考えなかった。会社の中を見渡しても、そういう話はとんと聞いたことがなかった。母親任せが当たり前と思っていた。子供の幼稚園の入園式を理由に休暇届を出したら、さぞ怪訝な顔をされただろう。怒りっぽい上司なら、仕事をなんだと思っていると怒鳴られただろう。今時そんなことを言ったらパワハラ、ブラック企業と非難囂々である。だから今ではそう言うことは言われない。いい世の中というか、つくづく贅沢な世の中になったものだ。

 30数年前と今と、仕事の何がどう違うかと言ったら、何も違わない。違うのは人の意識である。意識が違うと贅沢が贅沢ではなくなる。至極当たり前になる。昔なら贅沢と思われていたことが今は贅沢ではない。我々の頃の新婚所帯は、冷暖房もない6畳二間の安アパートと相場が決まっていたが、今は違う。息子は結婚して最初の孫が生まれたとき、高いローンを組んで冷暖房完備、最新式のシステムキッチン付きのマンションを買った。我々の頃とは雲泥の差だが、物心ついた頃からそういう生活レベルだった息子は贅沢とは思っていない。当たり前のことと思っている。自分も息子も一介のサラリーマンに過ぎず、親の遺産があるわけでもないのは同じだ。要するに世の中の基準が我々の頃よりはるかに贅沢になっているのだ。幼稚園の入園式やその他諸々も然りである。

 「保育園落ちた。日本死ね!」といういささか下品なツイッターが話題になっている。よほど暇なのか、国会でも取り上げられた。保育園に入れなかったくらいで国に悪態をつく。そういう権利があると思っている。以前は考えられなかった、贅沢な話である。日本人がおしなべて贅沢に慣れているのだろう。うちの孫達が住んでる場所は、小学校新設が必要になるほど子供が多い新興住宅地だが、二人とも難なく保育園に入れた。嫁がフルタイムで働いているのが効いているらしい。パートやアルバイトだと多少難儀するらしい。このツイッターを書いた女性もおそらくそういう事情があったのだろうが、それにしても日本死ね!などと悪たれをつくと、国会でさも大仰に取り上げられる。つくづく贅沢な世の中になったものだ。

 昨今の少子化の最大の原因は、子育ての大変さ故だという。昔は容易だった子育てが、なぜか今は大変になっている。子育ては金がかかるし、自分の生き方を犠牲にしなければならない。だから子供を産まない。結婚すらしない。そういう風潮が少子化を生んでいる。仕事より幼稚園の入園式を優先するコストは決して安くない。積み重なれば膨大な社会的コストになる。それを社会が受け入れられる。学校に上がればやれ習い事だ塾だと、安月給に羽が生えて飛んでいく。昔は塾や習い事はなかった。

 女性は子育てを天命とは考えず、自分の生き方を犠牲にする苦行の一種と考える。出来ることなら他人に預けて、好きなパートやアルバイトがしたい。そういう権利が自分にはある。聞き入れられないと「日本死ね!」。それを国会が相手にする。貧しくて子供を生めない少子化ではなく、実に豊かで贅沢な少子化だ。悪いと言っているのではない。今の低成長の中、こういう贅沢がいつまで続けられるか気懸かりではあるが。

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