伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年12月30日: 数学教室の同窓会誌 T.G.

 大学の数学教室から今年の同窓会報が送られてきた。卒業して50年になるが、一度も同窓会費を払ったことがない。しばらく前までは催促状と振込用紙が同封されていたが、最近は見かけない。年金生活者から取るのは忍びないと思われているのか。滞納分は50年分で10万円近くになるだろう。送られてくるたびに申し訳ない気持ちになる。

 土倉保名誉教授の訃報が載っている。享年93歳、8月に亡くなられたという。3年生の時、先生のルベーグ測度論と確率論の授業を受けた。極めて難解で持て余したのを覚えている。そのときの講義ノートが残っていて、先日開いてみたら、驚くべきことに一字一句理解できない。試験勉強の跡だろうか、赤線が引いてあるところを見ると、その頃は理解できていたに違いない。半世紀前の話である。

 同窓会誌の内容の大半は、母校に数学教室が発足した大正3年(1914年)以来の卒業生名簿で占められる。昨年度の卒業生は大学院合わせて総勢61名と言う多さである。我々の頃は20名足らずだったから、3倍以上の人数である。就職先を見ると、民間企業12名、高校教員7名、残りの40名強はすべて大学院に進んでいる。我々の頃は、20名のうち出来の悪い14人が数学を諦めて就職し、数学大好き人間の6人だけが大学院に進んだ。就職など目もくれず、一生数学に打ち込む覚悟なのだ。初志貫徹、この出来のいい6人の同窓生達は後日全員が大学教授になった。我々と違い一生数学で飯を食えたわけだ。しかし大学の数学教授の口はそう多くはない。1学年で40名も大学院に進んで、後はどうなるのか。人ごとながら心配になる。

 そもそも数学は極めて潰しのきかない学問である。一般社会では何の役にも立たない。大学で習った学問が、世の中でからきし役に立たないのは他の分野も似たようなものだが、特に数学はそれが際立っている。100%まったく役に立たない。まさに象牙の塔だ。我々の頃の大学の数学科で教えるのは純粋数学のみで(今でもそうかな?)、仕事で使う実用数学などまったく教えなかった。就職が決まった4年生の二学期、数学科が会社に行って微分方程式も分からないと恥を掻くからと、就職組だけに助手の先生が初歩の微分方程式と線形代数の特別講義をしてくれた。数学科では相手にしない、いわばニュートン以来の“古代数学”である。そんな古代数学も分からない純粋数学オンリーの学生は、企業では使い道がない。せいぜいが高校の数学の先生だが、教える中身は大学で習った高等数学とは似ても似つかぬ古代算術である。

 だから我々の頃の数学科卒業生の選択肢は、大学教授になって一生数学で飯を食う覚悟で大学院に進むか、諦めて高校の先生になるか、二つに一つだった。ところが卒業の2,3年前に日本にコンピュータブームが起きて、数学科が引っ張りだこになった。コンピュータに不可欠のプログラミングは論理と理屈の塊で、数学科に最適な仕事だと思われたのだ。まさに神風である。東芝、日立、NECなど大手企業から、学生数を上回る(と言ってもたった10人だが)求人が舞い込み、教授の推薦状を持って行けばどこでも無条件で採用してくれた。小生もその一人である。今のような就職難などなかった。それが今はまったく違う。コンピュータは日本の主要産業ではなくなり、東芝、日立、NECを含めたコンピュータ産業はすべて没落し、見る影もない。同窓会誌の昨年度卒業生の就職先を見てもほとんど見かけない。それなのに卒業生が60人もいる。需要と供給がまるでマッチしていない。だから大学院進学が増える。

 以前は大学院で学位を取るのは研究者への道で、頑張れば助手、教授という永久就職口が待っていたが、大学院が増えすぎて需要をまかなえなくなった。さりとて薹の立った大学院卒を企業は取らない。大学生が増えた日本には仕事の当てのないポスドクが溢れている。いわゆるポスドク問題である。それでも数学以外の分野ならまだいい。何かしら使い道があるが、数学専攻の大学院生には全くない。我が母校の数学科だけで毎年40人もが大学院へ進む。日本全体なら千人近い。ある意味、空恐ろしい数字である。彼らはいったいどうやって飯を食うのだろう。繰り返すが大学の数学科で学ぶ純粋数学は、一般社会で100%使い道がない学問なのだ。経済学部や商学部のように学位を粗製濫造していい学問ではない。文科省はいったいなのを考えているのか。大学教育に金を使うなら、別の方法がいくらもある。

 世の中の人は気づかないが、数学には博士号がない。最近日本の大学でいくつか例があるようだが、日本だけのもので世界では通用しない。なぜそんなガラパゴス学位を文科省は認めるのか。数学に博士号がないのは学位論文が書けないからだ。数学の論文で意味があるのは、未知の命題の推論、証明だけである。それ以外は何の価値もない。単なる雑文である。いくら大先生が書いたものでも、単なる解説では論文とはいわない。だから数学の論文は一握りの、極めて優れた数学者しか書けない。その論文を評価できる人がいない。フランスの天才数学者ガロアが21歳のとき書いた群論に関する論文を、当時フランス数学界の最高権威コーシーはまったく理解できず、紛失してしまったという。ガロアはその直後決闘で死んでいる。色恋沙汰だったようだが、ガロアが提示した群論はその後現代代数学の基礎になった。

 そんなわけで、ガロアには及びも付かぬ我々凡々の数学科には、他学部のような卒業論文がなかった。それをいいことに、就職が決まった後は卒業まで遊びほうけて過ごした。

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