伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年11月2日: 一枚の写真に見る人の運命 GP生

 今、手元に、TG君が送ってくれた一枚の白黒写真がある。入部2年目の夏合宿地、飯豊山頂で撮られたものだ。この年は入部者が多く、備品のテントでは収容しきれないため、新人を飯豊組と朝日組に分けて対応した。我々2年部員は、全縦走に参加した。写真には、TG君とTa君を除く、同期の仲間15名が写っている。写真を眺めていると、加齢と共に薄れかけていた当時の記憶が甦ってきた。卒業後の仲間達や自分自身の人生の軌跡を思うと、屈託の無い表情でカメラを見つめる15人から、暫く目を離すことが出来なかった。

 昭和30年代においても、大学入試は苛烈であった。受験勉強で消耗した新人の基礎体力は、入学時、最低の状態にある。夏合宿前に幾つかの合宿を経験し、日頃、トレーニングを行ったとしても、本来の体力を取り戻すのは、秋の声を聞く頃だ。自分も一年時の夏合宿で蕁麻疹を発症し、先輩達に迷惑をかけた。2年時の夏合宿は、心置きなく、山行きに打ち込める最高の環境にあった。

 同期の仲間は、自分を含め殆どが宮城県外の出身者だ。初めての地、仙台での生活環境に慣れるのには時間がかかる。学生寮や下宿での生活、仲間との人間関係を整えるのには時間が必要だ。2年目からは、地に足の付いた生活ができる。 写真の15人で、アルバイトをしていた者は居ないはずだ。当時の仙台でのアルバイトは家庭教師が関の山、青葉神社秋の祭礼での神輿担ぎぐらいしか知らない。奨学金を貰いながらの山歩きは想像外だから、生活費の殆どは親からの仕送りだった。自分が親の立場になったとき、如何に親に甘えていたのかよく分かった。それでも、写真の15名の経済環境が恵まれていたのは事実だ。

 15名中、工学部は4人、医学部1人、経済学部7人、理学部1人、2人の女性は教育学部だ。皆、将来の職業を想定して、学部を選択し受験したとしても、理工系は学部の専門課程に進学して、初めて職業の方向が見えてくる。経済学部からの就職は、職業の選択肢が広いのが特徴だ。当時まだ、大卒に価値があった時代だ。就職の心配をする仲間は一人も居なかった。2年目の夏合宿時は、将来への希望と期待はあっても、不安など全く感じない幸せな時期であった。その若者達も歳を経て、今は後期高齢者の入り口前後にいる。この世に生有ればの事だが。

 15名中、現在、伝蔵荘の仲間はTG君を含め4名だ。伝蔵荘を中心に顔を合わせ、飲み食い話し、時には山歩きをする事で交流が続いている。幸い、皆、齢に見合った健康状態は維持している。あの素晴らしかった時代と同じ気持で付き合える仲間は、高齢者にとって何物にも替え難いものだ。自然の成り行きに任せたのでは、何処かで人間関係は消滅していたかも知れない。お互い、運命の節々で、意識せざる努力の積み重ねがあった結果だと思っている。生きている限り、交誼は続く事だろう。

 この世を去った仲間は5名を数える。一人は卒業後、若くして自ら命を絶った。詳細は全く分からない。彼は、学生時代でも自らの意思を強く現すことは無かった。写真の中でも、唯一目立たない存在である。彼に何があったかは知らない。自ら命を絶ち、この世の苦悩から逃れることは、死後の世界で新たな苦しみを背負うことになる。殆どの人は、このことに思い至らない。あの世で、彼は今、どのような思いで居るだろうか。心から信頼できる友があれば、最悪の事態を防げたかも知れない。心を許しあえる仲間を持てるか否かも、運命の範疇に入る事なのだろう。

 40代の半ばで病に伏し、この世を去った仲間も居る。脳神経が縺れ、機能を失う難病、「もやもや病」だった。最後は、自分が誰だか分からなかったと聞いている。明るく、好奇心が強い積極的な性格を思うと、病魔に冒されたことが想像出来ない。この世との別れが、人生の盛りであったとは、なんと残酷な結末だろう。「もやもや病」の原因は不明だ。持って生まれた遺伝子の異常が原因と想像するが、何かの要因が引き金になったのかも知れない。全く別の生活環境であれば、発症しない可能性が有ったかも知れないと、勝手に想像している。これも、避けることの出来ない運命なのだろうか。

 TG君や亡きWaさん、それにTo君の4人で歩いた北アルプス縦走は生涯最高の山行であった。富山の宇奈月温泉側から剱岳に登り、後立山連峰を南下し、上高地に至るルートである。縦走中は快晴に恵まれ、北アルプスの眺望を思うがまま満喫した。夜空に輝く満天の星を眺めながらの、涸沢キャンプ地での語らいは、今でも心に残っている。多く語らずとも意思の疎通が出来る関係は、北アルプスの山中で更に深化したと思っている。そのTo君が長い闘病生活の末、パーキンソン病を発症して死去した。60代半ばであった。TG君と共に葬儀に参列したが、彼のあの明い笑顔は見る影も無く、やつれきった姿で横たわっていた。飯豊山頂で長身を縮めるようにして、ほほえんでいる彼からは、想像が付かない姿であった。かって彼も、伝蔵荘の仲間であった。例会を欠席し始めたのは、いつ頃からだろうか。男にとっても、就職と結婚は、運命を大きく転換させる。何処で、運命の歯車が狂ったのだろうか。

 何時もひょうきんな振る舞いで、仲間達を鼓舞してくれたIk君も鬼籍に入ってしまった。定年後、大手の鉄鋼会社から系列会社の責任者として出向中の死であった。参列した葬儀で、「何故、自分より先に死んだ」と、悲痛な思いで挨拶した兄の姿が忘れられない。葬儀後、同期の仲間達と彼の自宅に弔問に訪れた。二人の娘さんと話していると、「子供達を残して、何故死んだ!」との思いは更に強くなった。人は、どんなに苦しくとも生きなければ駄目なのだ。山頂で明るく微笑んでいるIk君の姿から、40数年後の運命を誰が予想出来ただろう。彼とは、伝蔵荘の例会で顔を合わせたのが最後であった。何時もの、関西弁での明るい語り口は変わらなかったが、少しやつれた姿が気にはなっていた。

 正義感が強く一本気なAb君は、50代後半に食道ガンで倒れた。早期に発見は出来なかったのだろうか。老年期のガンと違って進行が早かったのかも知れない。仲間達と葬儀に参列したが、早すぎる仲間の死は堪えるものだ。自分の下宿で、彼とはよく議論をした。何時も彼は、真正面から挑んできた。目をくりくりさせながら、自説を繰り出す彼はもう居ない。飯豊山頂での彼は、ウインドヤッケに身を包み、特徴有る目でカメラを見つめていた。

 TG君を含め残り11人は、現在も健在だ。自分も含め何人かは体調不良に見舞われたが、幸い回復している。定年退職後、皆、自適な生活を過ごしている。自分も運命の赴くまま、後期高齢者となった。サラリーマン時代は、仕事と生活に追われ、自らを振り返るゆとりは無かった。これからは、波瀾万丈はないとしても、老いに由来する悩みは避けられない。温故知新、老後を如何に過ごすかを考える時間に不足は無い。

 教養部での2年間は、人生の揺籃期であった様に思える。自分の人生観の基礎が、固まりつつある年代でもあった。振り返れば、あれから54年は、瞬く間の時の流れだ。自分の子供達は中年を迎えた。孫達の成長も著しい。自分に残された時間も数えられる歳になった。仲間達もそれぞれの思いを胸に、老後を生きて行くだろう。不幸にして、この世を去った仲間達は、今、あの世で如何しているだろうか。何れ、我々も後を追うことになる。

 老後を生きるには、過去を悔いること無く、前を向くしかない。あの時代に戻ることは叶わなくとも、あの当時の気持ちを呼び起こす事は出来る。生きる意欲を自らに吹き込むことにもなる。飯豊山頂での一枚の写真は、仲間達との繋がりと、青春真っ盛りの自分を思い起こせてくれた。心を昂ぶらせることの少ない老齢期を生きる身にとって、リフレッシュされた思いだ。

 卒業の年の3月、自分が居住していた瀬峰寮は、寮生が隠れて使用したヒーターによる漏電で焼失した。登山道具や山日記、写真等、全ての記録を失った自分にとっては、TG君が送ってくれた写真は貴重な物だ。人生で最高の時代を思い起こさせてくれた。TG君に感謝!

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