伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年9月28日: 安保法案と憲法学者の罪 T.G.

 19日の参議院での法案可決後、安保法案騒動は治まりかけている。野党やマスコミや一部文化人達が未練たらしく憲法違反を言い続けているが、具体的対案のない反対は説得力がない。やがて60年安保のように風化するだろう。

 ネット雑誌の「現代ビジネス」を読んでいたら、ジャーナリストの長谷川幸洋氏が「反安保の急先鋒となったあの憲法学者の「いかがわしさ」を明かそう 〜わずか2年前は「解釈改憲論者」。だから彼らを信用できない」という記事を書いている。これによると、6月4日の衆院憲法審査会で、集団的自衛権は憲法違反と決めつけて話題を呼んだ慶応大学の小林教授が、2年前まではバリバリの改憲論者だったと言う。そのことは日本報道検証機構代表・弁護士の楊井人文氏がヤフーに書いたネット記事で知ったという。

 それによると、小林教授は2年前のダイアモンド誌のインタビューで集団的自衛権について聞かれ、次のように答えている。

「政府は自国の自衛権の存在を認めています。自衛権を持つ独立主権国家が「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。政府は憲法の立法趣旨に照らして、集団的自衛権を自らの解釈で自制していますが、このままだと日本は、他国に攻められたときに自分たちだけで自衛しなくてはいけません。しかし、「襲われたら同盟国が報復にゆく」というメッセージを打ち出せる集団的自衛権は、他国の侵略を牽制する意味においてもメリットがあります。だから、改めて「日本は集団的自衛権を持っている」と解釈を変更するべきでしょう。」

 今回の安保法制賛成論そのものではないか。いったい彼はいつ変節したのか。

 そもそも5月にこの法案の審議が始まってしばらくは、法案に対する国民の関心は薄く、野党も攻めどころを見いだせず、平穏な審議が続いていた。事態が一変したのは6月4日の衆院憲法審査会で、小林教授を含める3人の憲法学者が揃って憲法違反と断定してからだ。これをマスコミがセンセーショナルに報道し、反対派がいっぺんに勢いづいた。国民も何が何だか分からぬうちに憲法違反の疑念を持ち始めた。野党の反対は憲法違反一色に変わり、国会前の反対デモで院外活動を始めた。あのとき三人のうち一人でも合憲を言っていたら、ああいう混乱は起きなかっただろう。法案はすんなり通っていただろう。その意味で、変節漢小林の罪は大きい。

 それにしても憲法学者というのは不思議な職業である。普通の学問分野では功成り名を遂げて大学教授の地位にたどり着くまでに、その分野での学識、見識が確立されている。よほどの新発見でもない限り変わらない。変えるとすれば、それなりの理由を論文などで明らかにしなければならない。それもなしにある日突然言っていることが180度変わったら、インチキ学者として世の中に相手にされない。特に今回の発言は日本国憲法の最重要テーマである。小林氏以外にも集団的自衛権を違憲とする憲法学者は多い。というか、ほとんどがそうである。その多くは個別自衛権も、それを根拠とする自衛隊すら違憲と考えている。それなのに自衛隊の非合法性を糾弾し、自衛隊廃止を訴えた彼らの論説を見たことがない。彼らには学者としての良心がないのだろうか。憲法は単なる飯の種なのだろうか。そうだとしたら日本の憲法学は実にいい加減な学問だ。

 ダイアモンド社の記事はかなり長いもので、自称「護憲派憲法改正論者」小林氏の憲法改正観を詳しく聞いている。彼はどうやら自民党の憲法改正案がお気に召さないらしい。そのことをインタビューの中であれこれ糾弾している。憲法は国家権力を縛るためのもので、自民党案はそういう立憲主義に反している。「国旗、国歌の尊重」や「憲法の尊重」など、やたら国民に義務を押しつけている。大間違いだという。その例として、自民党案の第3章第24条の「家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」と言う条文を挙げ、「家族を愛するかどうかはあくまで個人の道徳的な問題であり、国が強制するのは、憲法の定める思想・良心の自由に反する」とケチをつけている。こういう古くさい自民党案は国家権力主義の復古憲法だと断じ、全面否定している。

 一理なしとはしないが、国家権力主義改正案というのは言い過ぎではないか。権利ばかりで義務のない現憲法には異論もある。それは譲るとしても、案なのだからいくらでも加筆修正できる。そのための案である。仮に自民党が受け入れなかったら、自身の改正案を作って世に問えばいい。それが憲法学者の仕事であり役目だろう。そのために鋭意研究してきたのだろう。それもせず、雑誌記者相手に勝手な能書きを垂れるだけでは、まともな憲法学者とは言えない。

 彼の主張でもう一つ違和感を感じたのは、安部内閣が取り組もうとしている憲法改正条項の変更に関する考え方である。彼は「日本国憲法の改正条項は厳しい部類に入る。だから白紙から憲法をつくり直したり、今の体制下で一度きちんと憲法改正をやった後なら、発議要件を緩めるなど、冷静な議論をしてもいい」と言いながら、「かつての大日本帝国憲法は神である天皇から下げ渡された憲法であり、日本国憲法はアメリカから与えられた憲法。日本人はこれまで革命などを通じて自らの手で憲法をつくった経験がなく、アメリカやドイツのように自らの手で憲法を改正した経験もなかった。そういう国民を置き去りにして、改憲議論の入り口で政府がいきなり改正のハードルを下げようというのは間違い」と言う。国民を愚民視しているだけの様に聞こえる。こうなるともはや言いがかりに近い。どうやら自民党と安部首相が生理的にお嫌いらしい。

 「アメリカやドイツの憲法は市民革命で自力で作ったものだが、明治憲法は神である天皇から下げ渡されたもの」とは呆れる。彼は日本史を勉強していないのだろうか。よく言われる「フランス革命は市民革命だが、明治維新はブルジョア階級の権力闘争」という左翼の歴史観と一致している。明治憲法は天から降ってきたものではなく、明治政府を作った下級武士や学者達が西欧を見習い、自力で作り上げた憲法である。そのことは日本人なら誰でも知っている。そういう偏向した左翼思想が憲法学者にも蔓延しているのだろう。それが今回の騒動の種をまいたのだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないが、自民党改正案が憎ければ、彼らが唱える集団的自衛権も憎いということなのだろう。とても学者の論理ではない。

 いずれにしろ今回の安保法制騒動は日本社会に大きな亀裂とダメージを与えた。これが癒えるまで時間がかかるだろう。社会的損失が避けられないだろう。そういう意味で憲法学者の罪は重い。彼らには憲法改正案を作ってもらいたくない。

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