伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年9月19日日: 安保法案騒動と60年安保の記憶 T.G.

 やっと安保法案が国会を通った。ここ2,3日の国会と国会周辺のドタバタ劇を見ていて、60年安保を思い出した。規模は違うが、ほとんどあれのデジャブである。

 昭和35年に大学に入った。60年安保の年である。親元を離れて初めての大学生活、最初のうちは真面目に授業に出ていたが、5月の中頃からおかしくなった。岸内閣が批准しようとする日米安保条約改訂の反対運動、いわゆる安保闘争が学内にも押し寄せ、全学連の連中がキャンパスの中で演説会や授業ボイコットを始めた。大学や教授達も好意的で、なすに任せていた。朝登校すると、教室の入り口にバリケードを張って、入れてくれない。授業にならないので毎日休講になった。掲示板は休講の張り紙だらけだった。たまに教室に入ると、口が達者な左翼学生が教壇で一席ぶっている。今考えるとはなはだ幼稚な演説なのだが、知恵がつき始めた生意気な年頃、面白がってヤジを飛ばしたりしていた。

 やがて反対運動が全国各地に広がり、仙台でも駅前の青葉通りにデモ隊が繰り出し、ジグザグデモをやっていた。6月3日に全国規模のゼネストが行われた。左翼政党や組合が主導し、日本中の鉄道や公共施設を止める統一ストライキである。我らが瑞鳳寮からも寮生がこぞって参加した。緊急寮生大会を開き、寮のおばさんに頼んで握り飯を作ってもらい、それを持って各自仙台駅に駆けつけた。待ち受けていた大人達に仕切られ、仙石線のホームが持ち場に決められた。握り飯を頬張りながら一晩中ホームを占拠し、時折景気づけにアンポハンタイのシュプレヒコールを叫んだりした。仙台駅の周りはデモ隊だらけで警察の介入は全くなかった。仙台駅は列車が一両も通れなかった。それを見て大いに溜飲を下げた。

 東京の大騒ぎが聞こえてくると、とても仙台くんだりでママゴト遊びはしておれないと、夜行列車に飛び乗って東京に駆けつけた。東京の大学に進んだ高校の同級生と連絡を取り合い、秋葉原駅のホームで待ち合わせた。全身ずぶ濡れで現れた友人は、たった今国会前でデモ隊に加わっていたという。国会前は30万人を超えるデモ隊が押し寄せ、その熱気が革命前夜の様相だという。後で知ったが、その日に東大生の樺美智子が国会正門前でデモ隊に押しつぶされて死んだ。6月15日に安保条約が自然承認されると、反対運動の熱気は一気に冷めた。今まで通り列車が動き、サラリーマンは律儀に出勤し、我々学生も教室で大人しく授業を受けていた。誰も安保条約のことなど口にしなくなった。言われていた様なアメリカの戦争に巻き込まれることもなく、安逸な55年が過ぎた。

 大学に入った途端、毎日授業がない。それで怠け癖が付いた。一学期はほとんど授業がなかった。授業が再開された後も、山へ行ったり、部室で友人達とだべったりするのが楽して、授業にはほとんど出なくなった。その年、一度も授業を受けずに期末試験を受けた科目が、少なくとも四つはある。それでも単位が取れた。怠け癖の影響か、会社に入っても我々39年入社組からは一人も役員が出なかった。その前の年も後も役員が輩出したので、39年組は不作の年と言われた。

 自分を含めて、当時デモに参加していた連中のほとんどは、安保条約がどんなものか知らなかった。すでに存在していた条約の改訂に過ぎないことも知らなかった。ましてや米軍に日本の防衛義務を負わせるための改訂であることも知らなかった。何も分からずにアンポ反対を叫んでいた。我々学生だけでなく、知識レベルの高い大学教授や知識人も同じだった。一種の催眠術である。

 戦後15年、戦争に負けてアメリカ軍に支配されている屈辱感が誰の意識にも残っていた時代である。安保反対に名を借りた一種の反米運動でもあった。共産党などはそれを巧みに利用し、反政府運動にすり替えた。デモ隊を扇動して共産革命を狙っていた。学生運動はその手先に使われた。コミンテルンを通じてソ連から多額の闘争資金が左翼団体に渡った。そうでなければあんな大規模デモが出来るわけがない。あのとき不幸にも安保条約改訂が不成功に終わっていたら、日本はどうなったか分からない。アメリカの意欲が薄れ、まだまだ元気だったソ連を勢いづかせただろう。下手をすると日本が共産化された可能性もある。今の日本はなかっただろう。

 目標を失った学生運動は分裂して地下に潜り、日本中に災いの種を振りまいた。最も過激な連合赤軍は国内外でテロに走り、浅間山荘事件など残虐な殺戮行為を繰り返した末、自滅した。テルアビブ空港で引き起こした銃乱射事件は、その後のアラブテロの先駆けになった。中核派の連中はその後もしぶとく生き残り、成田空港闘争などを仕切った。今の辺野古反対運動もその流れである。分派した組織は、菅直人などを通じて今の民主党政権に影響を与えている。今回のデモ騒動もその一つだろう。

 規模は違うが、今回の安保法制反対運動は60年安保とそっくりである。反対運動の危うさも同じである。反対している側が法案の中身を知らない。知ろうとしない。憲法違反を唱えながら、なぜ違反か分かっていない。憲法学者がそう言うから違反だと思い込んでいる。国際情勢と日本の置かれた状況を何も考えない。国家安全保障は度外視で、ただただ戦争反対を言う。戦争法案などと意味不明のレッテル張り手法もそっくりだ。マスコミがそれを煽っているのも同じだ。アメリカの戦争に巻き込まれるというプロパガンダもあのときと同じだ。60年安保ではデモ隊がヤンキーゴーホームを叫んだ。沖縄の基地反対運動と合わせると同じ構図だろう。60年安保のように、この反対運動が残すダメージが思いやられる。

 シールズとか言うにわか仕立ての学生運動を見ていると、昔を思い出してハラハラする。この若い跳ねっ返りの学生達が、やがて狷介な左翼政党に搦め取られ、全学連と同じような悲惨な末路をたどる。それを思うと暗然とする。公聴会に引っ張り出された奥田という学生は、晴れの舞台で精一杯の一席をぶったが、言っていることがまるで幼稚。昔の自分を見ているようで顔が赤くなった。当時の学生運動の主導者達はもう少し弁が立った。彼のような幼稚なことは言わなかった。世の中全体が幼稚化している。その幼稚な学生に民主党や共産党が目を付け、リクルートを始めているという。リクルートの語意は兵士選抜である。「突撃隊志願者は一歩前へ」である。世間知らずの若い学生が選抜されて、左翼の鉄砲玉にされる。60年前の学生運動の不幸がまた繰り返される。若者を消耗するだけで何の益もない。こういう不幸はもうお終いにしたい。

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