伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年8月25日: 芥川賞作品「火花」「スクラップ・アンド・ビルド」を読む。 T.G.

 今月号の文藝春秋に掲載された芥川賞2作品、「火花」と「スクラップ・アンド・ビルド」を読む。最近の芥川賞はしばしば2作同時受賞の大安売りである。別に日本の文学水準が上がったわけでもあるまいし。今回の受賞作「火花」は、テレビ芸人の処女作として事前からマスコミで大賑わいだった。商売上手な文藝春秋社の販売戦略だろう。さてどんな出来か。そういう先入観的色眼鏡を出来るだけ排して、虚心坦懐な気持ちで読んでみた。

 まずは又吉直樹氏の「火花」である。売れない漫才師とその師匠との交流が物語のすべてである。それ外のことはほとんど書かれない。時折女性関係や漫才業界の話が出て来るが、あくまでも付けたりで構成の都合上のように見える。テーマが漫才なので、弟子である主人公と師匠の漫才芸に関わる価値観や考え方のずれが、二人の会話を中心に事細かく書かれる。時系列としては10年近くに及ぶ話なのに、ストーリー性はほとんどない。終始漫才芸の話である。文章と文体はかなりの出来である。拙劣さやぎこちなさは感じられない。漫才芸人の域を超えている。文章だけを見たら、純文学として十分な水準である。おそらく若いときからの読書量の賜物に違いない。

 内容とテーマについてである。漫才芸の考え方や価値観が二人の会話を通してくどいぐらいに書かれるが、あまりにも特殊な世界、特殊芸の話である。料理人に料理の味ではなく、魚のさばき方をくどくど説明されているような気分になる。漫才師の世界から出て、もう少し普遍的な人間世界の情感や業や懊悩にまで敷衍できたらと思わぬでもない。純文学といえど小説はフィクションである。作り話をベースに情緒や美意識や、人間の業や懊悩を書き込む。おそらくこの作者にとって、漫才芸と業界は勝手知ったるホームゲームなのだろう。だからフィクション構成に精力を割かず、文章表現に注力できたのだろう。この作者の2作目以降は同じ手慣れたシチュエーションは使えない。いわばアウェーゲームになる。どのような描き方が出来るか、見物である。

 最大の欠点はストーリー性の希薄さと長さである。ストーリーに重きを置かない優れた文学作品はいくらもある。ほとんどは短編である。この作品もストーリーの希薄さだけなら問題にならない。問題は長さだ。いかにも長すぎる。同じ話が延々と繰り返される。もう頂上かと思ったら、次から次へと頂上が出てきてうんざりする登山のようである。読んでいて嫌になる。グレンミラーのIn the Moodバッハのコンチェルトはいつまでたっても終わらないのが一種の魅力だが、小説はそうはいかない。物語の3分の2あたりで、主人公が師匠の別れた女性と10年後に再会する場面がある。あそこで終わらせていたら、もっと引き締まった作品になっていただろう。惜しまれる。実際問題、これれ以降の記述はほとんど意味がない。蛇足と言っていい。特に最後の終わらせ方などぶち壊し以外の何ものでもない。ない方がずっと良い。そのことは選者の村上龍氏も言っている。

 巻頭に作者の又吉氏が短い「受賞の言葉」を書いている。たった14行だが、内容文体とも、諧謔に富んだ引き締まった文章である。作品以上に素晴らしい出来である。こういう味のある短文はなかなか書けるものではない。そう思って受賞者インタビューを読んでいたら、乞われて業界雑誌に書いたエッセイが彼の文章書きの手始めで、エッセイを書くのが楽しかった。イメージとしては太宰治の文章がお手本だったと言っている。そう言われてみれば太宰の文章に似ている。彼にはぜひ太宰のような文体の緻密な短編小説を期待したい。それにはまずアウェーゲームに慣れることだ。

 ついで羽田圭介氏の{スクラップ・アンド・ビルド」である。介護老人の祖父と同居する失業中の孫の話である。孫と言っても30歳近い中年の入り口である。その中年男の孫と祖父のやりとりを通じて、介護問題の蘊蓄が語られる。「火花」と漫才と同じだ。それに失業、就職難、セックス、家族問題から、軽い社会批判など、昨今の風俗や社会問題を絡ませる。乾いた文体と相まって一種の社会ルポルタージュのような雰囲気である。恋人(彼女?)との排泄行為に近い器械体操のようなセックス、テレビニュースの域を一歩も出ない、“三流大学出”の主人公(作品中で何度も繰り返される自虐表現)の底の浅い社会批判など、まるで文学作品らしい主人公の懊悩や情感や人間くささが伝わってこない。日本の純文学はついに安物ルポルタージュに脱したかとため息が出る。

 選評を読むと、どうやらこの作者は芥川候補の常連で、前候補作は介護問題とはまったく別の異常性愛(SM)がテーマだったという。こういうエキセントリックなテーマを選んで、そこそこ巧みな文章力で切り刻み、料理してみせる。今回は三流大学出を自嘲する主人公に、思慮の足りない、通り一遍の社会批判を言わせる。元々深いたくらみや魂胆があるわけではないので、ボケた語り口の社会批判は意図したレトリックなのだろう。そうだとすれば、作者の意図があざとい。

 数年前の西村賢太氏の芥川賞作品「苦役列車」は社会の底辺であえぐ中卒の若者が主人公で、この両作品よりはるかに低学歴の、無様で不潔で救いのない日常生活を活写していたが、この作品のようにことさら三流大学出の自虐をレトリックに使っていない。その分主人公の、懊悩や人間性が伝わってきて、この作品よりはるかに文学の香りがする。文学で無学を語るなら、もっと違う料理の仕方があるはずだ。その好例が「苦役列車」である。そういう諸々の意味で、ストーリーにちりばめられる社会批判は軽い読み物ではある。しかしそれ以上にはならない。この思いつきとレトリックだけが命の作品は、文学としては「火花」より劣る。この作者の次作がどんなものか、想像が付いてしまう。別の言い方をすれば、底が割れている。とても金を出して読む気にはならない。

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