伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年8月15日: 8月15日・5歳児の記憶 GP生

 自分は今年の初め、いわゆる終活を始めた。後を託する子供達に迷惑を掛けないためだ。まだ幾つか整理がつけられない事案もある。その中の一つが我が家の歴史の執筆だ。自分が記録しておかなければ、息子や孫達が、先祖との繋がりが分からなくなると考えたからだ。人は、先祖との繋がりを知る事で、自分の立ち位置を認識し、将来に繋がる努力をするものだ。資料は先祖の位牌と親から聞かされた昔話だ。母親は家付き娘で、子供の頃から昔の事を色々話してくれた。自分は、幼児期を戦中終戦後の混乱期の中で過ごした。昭和15年の生まれであるから、終戦は5歳で迎えた事になる。今年も8月15日の暑い夏がやってきた。自分の歴史は、当時5歳であったあの時代の記憶から始まった。

 B29の本土爆撃が始まった昭和19年、父は赤紙出征で何処かの戦地にいた。生死は不明だ。祖父の代は農家だったから、敷地は広かった。その一角に防空壕が二つ掘られた。当時、祖父母と母、姉と自分が家族だ。防空壕を自力で掘れるはずがない。恐らく、「隣組」の力だろう。周囲は商店・住宅が多く、防空壕を掘れるスペースがなかった。我が家が土地を、近隣が労力と材料を提供したのだろう。防空壕は、深さ2b、面積は2畳程度だ。杉丸太を打ち込み、周囲は土留めの板囲いであった。天井は並べた丸太の上に板をひき、その上に1bぐらいの土盛りがしてあった。今考えれば、気休め程度の壕だった。

 町の外れに4階建ての信用金庫があった。町一番の高層建築で、屋上にサイレンが設置されていた。空襲警報発令のサイレン音が町内に響き渡り、暫くすると、B29の編隊が西の空を北上するのが見えた。サイレンが鳴ると、母は自分を連れて防空壕に駆け込んだ。近所の人達も沢山来ていた。狭い防空壕では、することがない。打ち込まれた杉丸太の皮をむいていた事を覚えている。家から少し離れた場所に、中島飛行機の工場があった。工場を狙った爆弾が逸れ、何発かが住宅を直撃した。一発が我が家の直ぐ近くの防空壕を直撃し、一家が全滅した。もう一発は近くの小学校裏の民家に落下した。二発とも爆発音を聞いていないので、不発弾であったのだろう。

 夜になって東の空が一面に真っ赤になっていた事があった。恐らく、3月10日の東京大空襲の記憶であろう。5歳になって直ぐの事だ。この頃、姉は埼玉県慈恩寺村、現在の岩槻市に疎開していた。父が支那事変で出征した時の戦友の家だ。米軍の空襲が都心から次第に西に移ってきた。我が家が空襲で全滅した後、もし、父が復員したときの為に、肉親を残しておこうとの母の考えであった。戦友の家は農家で、食料に不自由はしなかった。母は自分の着物と食料との物々交換のために、何回もこの家を訪れた。自分も母に連れられて満員列車に乗った記憶がある。8月15日に終戦を迎えた時、我が家は人家とも無事であった。

 昭和20年の終戦前の事だと思う。当時、久我山に在った高射砲陣地の砲弾が、B29一機を撃墜した。当時の日本軍の高射砲は高度7000b程度の射程しかなかった。B29は一万bの高高度を巡航していた。日本製鋼所が1万bまで届く高射砲を2門製作し、このうちの1門が久我山の高射砲陣地に設置されていた。自分は、B29撃墜の事は、近所の人から聞いたのだろう。久我山まで歩いて見に行った。大人の足でも1時間以上かかる距離だ。5歳の自分は好奇心が強かったのだろう。人家に墜落したB29は、地面に大きな穴を空けていた。消火作業が終わっていたのだろう、周辺の家が何軒もくすぶっていた。大人達が米兵の遺体を棒で突っついていた事を鮮明に覚えている。5歳の子供には強すぎる刺激だ。

 8月15日の玉音放送は、祖父母と母と一緒に聞いた。重大な放送があるから聞くようにとは、回覧板からの情報であったのだろう。頂部が丸い並四ラジオは雑音が多い上、放送内容は5歳児には理解不能であった。それでも「たえがたきをたえ」との天皇陛下の言葉は記憶に残っている。親たちが「戦争が終わったようだ」と話していたが、自分は「防空壕に入らなくても良い事とお父さんが帰ってくる」との方が嬉しかった。父が戦死している事は考えた事が無かった。

 昭和22年2月に祖父が脳溢血で死去した。自分が小学校1年生の時だ。当時、新円切り替え後で、インフレが激しかった。父親の居ない家計は厳しかったようだ。真面な葬式を出せなかった。「霊柩車を雇えないなら、リヤカーで棺桶を火葬場まで運んだら」と親類から言われ、泣いている母を覚えている。続いて、昭和23年4月に祖母が死去した。祖母67歳、脳溢血であった。祖父母とも死因が脳溢血であった事は、戦中戦後の食糧不足が原因であったのだろう。ふすまやサツマイモの蔓を食べていた記憶がある。お腹が膨れて痩せた、栄養失調の子供は至る所で見られた。

 昭和24年11月に父がシベリアから復員した。出征地は千島列島の択捉島、日ソ平和協定を破ったソ連軍の捕虜と成り、シベリアの奥地で強制労働させられていた。身体が頑健だったから帰国できたのだろう。自分が小学4年生の時だ。この時を以て我が家の戦後が終わった。

 5歳で終戦を迎えたのは自分にとって幸いだったのかも知れない。漠然とした不安感はあっても、幼い故、我が家の置かれた厳しい状態を理解できなかったからだ。もう少し、年長であれば、母と一緒に悩んだ事だろう。食べる事と遊ぶ事が最大関心の幼児であった。祖父母が亡くなり、母子3人の生活が始まる頃は、家の置かれた状況を理解できるようになった。「お父さんさえ還ってくれば」が我が家の支えであった。

 あの時代の子供は、終戦時に何処に住み、何歳であったかで体験や記憶が異なるだろう。昭和18年生まれの家人は、戦争の記憶が無いのは当然だ。昭和12年生まれの姉は、終戦時は7歳で、自分より多くの記憶を持っている。しかも、里子同然に、他人の家に預けられて苦労している。今振り返ると、あの時代を良く生きてこられたと思う。親のお陰だと感謝している。

 自分の子供達や孫達は、衣食に苦労した事は亡い。腹が空けば好きなものを食べられる。友達との連絡はスマホだ。戦後70年、日本が戦争に巻き込まれる事無く、平和に発展をしてきたお陰だ。憲法第9条のお陰でないのは確かだ。昨日、閣議決定された「70年談話」が安倍総理から発表された。自分個人としては不満もあるが、政治的な妥協を考えれば、やむを得まい。「戦争を知らない子供や孫達から、謝罪を断ち切る」とのメッセージは評価できる。

 あれから70年、両親は既に居ない。自分が「80年談話」を聞ける保証は無い。当時、子供であっても、戦後のあの時代を経験したからこそ、現在の生活を享受できる有り難さを感謝出来るのだろう。戦争体験の無い世代が殆どを占める今、自分も再度、大東亜戦争を学び直したいと考えている。

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