伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年7月10日: 東海道新幹線焼身自殺に思う GP生

 「新幹線の安全神話が崩れた」と報道された先月末の列車内焼身自殺は、考えさせられる事件だった。自殺した男の住まいは、自分の家から徒歩10分の川沿いにある木造2階建てのアパートだ。孫が通う区立中学校とは目と鼻の先だ。遺書は見つからず動機は不明だ。年金が大幅に減少した生活苦だとも報じられているが、にわかには信じられない。自殺場所を新幹線車内に選んだ理由も分からない。巻き添えになり死亡した女性の他に、1歳から65歳の人達26人が重軽傷を負った。自らは命を絶っても、引き起こした事態の責任は極めて重い。被疑者死亡のまま送検で事件は幕引きになっても、巻き込まれた被害者達が、心身に負った傷が癒えるには、時間を要するだろう。この責任は全て、71歳の男に帰する。JR東海は、運休によって生じた損害賠償を如何するのだろうか。

 71歳の男は、演歌歌手を目指し岩手県から上京したが、歌手にはなれず、ギター片手の流しを続けていた。流しを辞めてからも、この町で生活をしていた様だ。自分は何処かで顔を合わせていたかもしれない。死ぬ前に、故郷の姉に生活苦を訴えていたが、年金の減少だけが自殺の原因なのだろうか。

 12万円の年金は高額ではないが、働けば生活出来ない額では無い。自分の知人にも、同じような生活をしている74歳の独居老人が居る。彼の収入は自殺者と同じ様なものだ。家賃は4万円と聞いている。自殺者との違いは、積極的に社会に関わって行こうとする姿勢と努力だ。彼の生き甲斐は、自分が行ったささやかなな作業が、周囲から評価される事だ。マンションの清掃作業でも、住人から「ご苦労さん。綺麗にしてくれて有難う。」と声を掛けられれば、この喜びを周囲に話し回っている。毎度の事に、周囲の人達は聞き流しているが。それでも、彼は生甲斐を持っている。

 新幹線の男が、死を覚悟した本当の理由は分からないが、生きる意欲を喪失した事は確かだろう。自ら命を絶つ事で、現世での苦しさから逃げようとしたのだろうか。人生がこの世限りで、死んだら「無」になれば、救いになるかもしれない。

 人は、あの世を見る事が出来ない。感じる事も出来ない。所謂、「空」だ。「空」とは見えないけど、間違いなく実存する世界、すなわち「あの世」の事だ。人は、[この世]は見る事が出来る。見える物には色が付いている。すなわち「色」だ。「あるようで無い、無いようである」のが「空」だと解釈する宗教人の著書を読んだ事がある。意味不明だ。「色」と「空」の解釈を「この世」と「あの世」とすれば、般若心経の有名な一節、「色即是空 空即是色」は「この世即ちあの世なり あの世即ちこの世なり」と理解する事が出来る。意味する事は、「あの世とこの世は一体」であることだ。だから人は死んでも、「無」にはならず、あの世に還ることになる。

 この世で人は、肉体と心が一体となって存在している。脳は心の翻訳器官にすぎない。加齢による病や老化による肉体の衰えは、誰も避ける事は出来ない。この世での苦しみや悩みの多くは、肉体に由来する。だから、命を絶てば、楽になると錯覚するのだろう。所が、この世での死は、肉体の死であっても、心の死ではない。この世での記憶を留める魂となって、あの世に還る事になる。あの世には生活苦はない。しかし別次元の苦しみが待っているから、死は救いにならない。

 自殺者の行く先は極めて過酷な場所だ。生きることが宿命とされるこの世で、自ら命を絶ち逃避した罪は重いからだ。自殺者の魂は、暗い穴蔵のような場所に閉じ込められ、何も見えず、移動がままならないと聞いている。自殺者の魂は、何年も、何十年もも、そこにに留まる事になる。かってのこの世で、自らが犯した過ち全てを自覚し、心から反省を終えた時、別の階層に引き上げられ、救われるそうだ。人の魂は、そのような環境に何時まで耐えられるのだろうか。まさに地獄の苦しみと言える。唯一導通している場所は、自分が命を絶った場所だ。苦しみから逃れたい魂は、自殺した場所で暗い心を持つ人に憑依し、自分の世界に引きずり込む。更に罪を重ねた魂の救済は遠くなる。

 自殺した人が、その後の魂の住みかの実相を事前に知っていたら、この世で、如何なる苦しみにも耐えただろう。死ねば全てが消え、楽になるとの誤解は、年間2万5千人もの自殺者を生んでいる。現代の宗教人には、彼らを救う力は無い。自分の学生時代、瀬峰寮の仲間2人が、社会に出てから自殺している。残っているのは自分一人だ。当時の自分は、あの世とこの世の真実を知らなかった。自殺者の行く先を知った今、夜一人、自室で焼酎のグラスを傾けていると、肝胆相照らした仲間達の事を思い、胸が痛くなる。2人は他を巻き込まず、独りで死んでいった。新幹線の男は衆人の中、大騒動を起こして死んだ。大観衆の舞台で歌う事が叶わなかった代償行為なのだろうか。世の関心を自分に向けさせたい虚栄心なのだろうか。しかし今の彼は、人知れぬ場所で、新たな苦しみにさいなまれている筈だ。現世での生き方を誤った報いは過酷だ。

 人は独りでは生きられない。人との関わりがあってこそ、生きる意義が生じる。家族はその最たるものだ。新幹線の男の縁者が何人いるかは知らないが、この町での老後は孤独だったようだ。彼の行動は町内で評判になっていたと聞いている。男の住むアパートの前を何回か通った事がある。この古びた木造住宅に、唯独り何十年も住み、老いを迎えるとしたら、その寂しさは如何ばかりだろう。この男が、若い時から地道な仕事に就き、何時でも通用するスキルを身につけていたとしたら、老後の生き方も変わって居ただろう。流しの生活で、身についたものは何だろう。せめて、中年以降、違った生き方をしていれば、異なった余生を送れたと思うが、二十歳を過ぎたら、生き方の根本は変えられない様だ。

 70歳を過ぎてからの生活は、生きてきた結果の総括だと感じている。過去の集積が、現在の生活に繋がっているとすれば、残された時間の中で大きな飛躍は期待できない。老人が、残された人生を如何に生きるかは、終活の根本だ。新幹線男の様に、71年間の結末が、自ら命を絶つしかないとしたら、一生が無に帰する。その後の長い暗黒生活など想定外だっただろう。作用反作用、因果応報は、この世の摂理だ。自らの行為は自らが責任をとらざるを得ない。老齢期を迎え、肉体と心を健全に保ちながら、加齢と共に生きる事は大変な努力を要する。生ある内に答が得られなくとも、この世で生きる意義を求め続ける事は、生き甲斐に通じると信じている。

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