伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年7月7日: 安保法制の神学論争 T.G.

 国会の内外で、安部内閣の安保法制に関する神学論争が繰り広げられている。途中で学者先生の思いがけない違憲発言や、自民党のマスコミ批判のオウンゴールがあったりして、おかしな風向きになってきた。日本人が大好きな、無意味な神学論争に弾みがついてしまった。これから先どう転ぶのだろう。いささか心配になってきた

 21世紀の今日、国家安全保障政策に関して、これほど非現実的で空想的な神学論争が繰り広げられる国を見たことがない。安全保障は国の存立に関わる問題だから、大国はもとより小さな国でも、法律の重箱の隅はつつかない。現実について議論する。むしろ存立を脅かされている弱小国の方がよりリアルで現実的である。大国であれば、自国の国際的な立場を考慮に入れるから、別の意味でリアルである。世界第三位の経済大国日本はそのいずれでもない。極めて珍しい国だ。護憲派が金科玉条とする平和憲法の魔術か。

 論争のほぼ90%は憲法違反か否かに集中している。野党はこれ一本で押している。肝心の安全保障に関してはどうでもいいというか、ノーアイデアである。議論にならない。ほかにもあれこれ言っているが、憲法違反以外は付けたりである。法律というのは変なもので、やってはいけないことしか書いてない。やっていいことは書いてない。いわゆるネガティブリストである。左折禁止と書いても、右折OKとは書かない。憲法も同じだ。書いてないことはどんな間違ったことでも憲法違反にはならない。たとえば、憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と書いてある。これは「何人もその権利を侵してはならない」と言うネガティブリストである。だからそれを満足させるために、CO2をいくら排出しても憲法違反にはならない。駄目とは書いてないからだ。

 これは完全な屁理屈である。でも法律論としては正しい。憲法論争というのはみな同じで、そういう屁理屈の応酬である。今の集団的自衛権論争はその典型だ。ネガティブリストとしての憲法9条には、「集団的自衛権はダメ」とは書いてない。書いてないことはやっても違憲にはならない。第1項には「戦争と武力の行使は、国際紛争を解決する手段として永久に放棄する。」としか書いてない。つまりどんな戦争もダメということだ。それでは自衛戦争も出来ないと、第2項を付け加えた。これを頭のいい東大法学部が読むと、集団的自衛はダメで、自衛ならいいと解釈出来るのだという。自分にはどう読んでもそうは読めない。屁理屈である。ことほど左様に憲法解釈はいい加減なものなのだ。

 そもそも自衛戦争と言うのが曖昧でいかがわしい言葉である。何をもって自衛というか定義がない。極めて情緒的な言葉である。そんな言い方は戦前はなかった。国と国民の利益を守るためなら、いかなる戦争でも自衛戦争である。されば、ヒットラーがポーランドに侵攻したのも、関東軍が盧溝橋を越えて攻め入ったのも自衛である。そうしないと国がもたないと為政者が判断したからだ。間違いとは必ずしも言えない。半分は当たっている。でもどういう理屈か、今では侵略戦争にされている。

 侵略戦争は自衛戦争の反対語である。自衛でなければ侵略だ。しからば何をもって侵略戦争というのか。たとえばアメリカがベトナムに侵攻したのは自衛なのか侵略なのか? イラクアフガンならどうか? 中国が南沙諸島を勝手に埋め立てているのはどうか? どう考えても自衛ではない。これが自衛だったら何でも自衛だ。ヒットラーのポーランド侵攻も、支那事変も自衛戦争になる。でも世界ではこの二つ以外、どれも侵略戦争とは言わない。そう言ったら超大国アメリカの都合が悪いからだ。だから侵略ではないととぼけている。しからば自衛でも侵略でもないベトナム戦争はどういう戦争だったのか。ことほど左様に「自衛/侵略」はいい加減で無責任な物言いである。議論しても仕方がないからどこの国でも議論しない。いまだにしているのはナイーブな日本だけである。

 同じように、安保法制を自衛か否か、さらには個別自衛か集団的自衛かで議論するのは無意味である。日本以外どこの国もしない神学論争である。神学論争は神様だけである。人間は放って置かれる。だから現実世界にとって無意味である。早稲田の先生は集団的自衛権は憲法違反だと言った。それなら個別自衛の戦力である自衛隊はどうなのか。9条のどこに自衛戦争ならいいと書いてあるか。屁理屈の応酬としてはそうなる。こんな役立たずの馬鹿げた論争をいつまでしているつもりか。こういうのを世の中では雪隠詰めという。臭いところから出るに出られぬという意味である。まさに日本は頭でっかちの雪隠詰めだ。

 民主党も、あれだけ雁首並べて、もう少しマシな議論が出来ないものか。彼らは個別自衛権は認めているのだから、集団的自衛権がなくても自衛は可能だと。日本は立派にやっていけると。アメリカとつるむ必要はないと。あれこれデータを示して論破すればいい。そうすれば議論がかみ合う。神学論争でなくなる。もっと現実的でリアルな議論になる。実際問題、集団的自衛権を否定するならそれしか手がないはずだ。「最低でも県外」と同じで、そういう議論が出来ないから、無意味と分かっていて神学論争の寝技に持ち込む。とても政治家とは言えない。アーメン唱える牧師さんである。

 民主党が今回の法案を「戦争するための法案」とか「徴兵制につながる法案」などと、愚にもつかぬ扇情的な院外攻撃をしているのも頂けない。仮にも政権交代を目標にする政党なら、こういう馬鹿げた反対をすべきではない。なんの具体策もない口先だけ番長では国民が信用しない。政権は取れない。そのことは2年前に身に滲みたはずなのに、忘れたのだろうか。日本国民が扇動に乗り易い未成熟な国民であることは確かだが、それを政治活動に悪用するのは、政権を狙う政党のなすべきことではない。政権を取った途端に困るだろう。せいぜいが社民共産などの万年泡沫野党のやることだ。公明や維新でさえ大人になろうと苦労しているのに、いったい民主はどういうつもりか。

 戦後日本の支配者だったマッカーサーは、「アメリカ人やドイツ人の精神年齢は45歳だが、日本人は12歳だ」と看破した。その結果、ドイツには自分で戦後憲法を作らせたが、日本にはその精神年齢と身の丈に合う憲法を作って与えた。戦後70年経っても、未だにその子供のオモチャで遊んでいる。救いがない。日本人の劣化以外の何物でもない。日本の先行きが心配だ。

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