伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年5月29日: 駐輪シールと人の繋がり GP生

 4月末に、空き室の入居者が決まった。仲介業者に手渡す文書等は、契約書、重要事項説明書など10種類近くある。その中の一つが「駐輪シール」だ。駅に近いマンションの駐輪場は、部外者による無断駐輪が多い。歩道駐輪をすると、区の回収車により撤去されてしまうからだ。住人の自転車と部外者の自転車を区別するのが「駐輪シール」だ。新しい入居者が決まると、自転車の台数を確認して、仲介業者から渡すのが習いだ。仲介業者に渡す駐輪シールを眺めていると、駐輪シールに繋がる人々の事が思い出された。

 「駐輪シール」の作成は平成2年だから25年も前の事になる。当時、自分は現役のサラリーマンで、両親も健在だった。駐輪シールは、懇意にしていた会社の資材担当Egさんに発注をお願いした。デザインは、マンションに新たに入居したデザイナーのIsさんによる。マンション名を英字にした楕円形の可愛らしいシールだ。

 Egさんは鉱山時代の仲間の一人だ。彼は、鉱山時代から資材担当で、最後の職場が自分と同じエンジニアリング会社であった。彼は酒好きで、アフターファイブによく同席をしたものだ。平成6年の初冬、寿司屋のカウンターで二人して飲んだ事がある。この時、たいした量を飲んでいないに、彼は酔いつぶれてしまった。こんなに弱いはずは無いのにと、不審に思いつつ、彼を自宅までタクシーで送った。翌年の2月、彼の訃報を受けた。自分は、平成6年春に退職していたので、その後のEgさんの事は知らなかった。葬儀に参列して、Egさんが肝臓ガンを患っていた事を知った。死去した年の1月に、体調不良で検査を受けガンと宣告されたが、既に手遅れだったと聞いた。前年、寿司屋のカウンターで酔いつぶれた時には、ガンは進行していたのだろう。「駐輪シール」を見ると、何故かEgさんとの長い付き合いが思い出される。

 駐輪シールをデザインした、Isさんとその家族の事は忘れられない。Isさんとの付き合いは、Isさんの奥さんと家人がパート先で知り合ったのが始まりであった。Isさんは、娘2人、息子1人の5人家族で、少し離れた場所にあるアパートに住んでいた。Isさんはデザイナーで、家庭に仕事場が無い事を嘆いていた。平成2年に竣工したマンションの1階には10畳の地下室があり、仕事場にはもってこいの場所であった。自分と家人は転居してはと勧めた。問題は家賃だ。そこで思い切った家賃を提案した。そして、Isさん一家が転居してきた。新しい環境で夫婦が心機一転して頑張り、狭い部屋で生活していた子供達が、伸び伸びとしてもらえればとの気持ちもあった。この時に、Isさんに依頼したのが、入居者に配る新築記念のテレホンカードと駐輪シールのデザインであった。

 Isさんの長女は当時中学1年生であった。自分は、彼女にマンション清掃のアルバイトをしないかと勧めた。4階建てマンションの階段と廊下を月4回清掃するバイトだ。彼女は喜んで引き受けてくれた。バイト料は思い切って弾んだ。日頃、彼女が勉学に励み、弟や妹の面倒をよく見ていたことを知っていたし、厳しい家計の中で小遣いも十分でない事が想像できたからだ。縁が有って、越してきた彼女の懸命に生きる姿を見て、応援する気持ちがあったのは確かだ。小学生の次女が箱根への遠足で、お土産を持ってきてくれた事がある。竹製の耳掻きだ。子供心の気遣いを素直に喜んだ事を覚えている。

 Isさんとその家族は3年近く住んだが、結局、夫婦別れしてしまった。離婚原因は分からない。3人の子供達は母親と郊外の町に移り住んだ。Isさんは何処に転居したかは知らない。家賃1ヶ月分が未納のままの解約、転居であった。Isさんには支払能力が無いので、連帯保証人である奥さんの父親に支払って貰った。暫くして、Isさんは滞納家賃の半分を分納で、自分の口座に振り込んできた。この家賃を連帯保証人に戻すべく連絡したが、返還無用との返事だった。半月分の家賃が宙に浮いてしまった。自分が貰うわけにはいかない。Isさんとは連絡が出来ず、元妻に聞いても知らないという。仕方なく、この家賃は金庫に眠る事になった。その後、Isさんが残りの家賃を振り込んでくる事は無かった。

 その後長女は、頑張って、私立大学に進学した事を知った。暫くして、彼女の母親から「長女が交通事故で急逝した。大学のクラブの仲間達がお別れの会を開くので、是非来てほしい」との電話を貰った。驚き、家人と一緒に参列した。質素ながら、大勢の仲間達が心のこもったお別れの会を盛り上げていた。無くなった彼女の人柄が、多くの人達の心を動かしたのだろう。夜、アルバイト先から自転車で帰宅する途中、自宅近くの道路で車に跳ねられたと知った。恵まれない家庭環境の中で、努力し、自分の進むべき道を真摯に生きてきた彼女の死が、痛ましくてならない。もし、両親が離婚せず、自分のマンションに住み続けていたとしたら、今頃、立派な社会人として生活していた事だろう。20年近くが過ぎた今でも、彼女の死を思うと、心の中が湿っぽくなる。

 我が家の近くに、赤提灯の小さな飲み屋があった。夕方から翌朝まで営業している飲み屋で、客は常連のみ。自分も、若い頃は時々出かけたものだ。この店の焼きおにぎりが絶品であった。お別れの会に列席して暫くしての事だ。飲み屋のマスターと路上で立ち話をした時、Isさんがよく飲みに来る事を知った。頃合いを見計らって飲み屋に顔を出すと、間違いなくIsさんが居た。彼から退室した後の話を聞いたが、仕事はしているものの生活は荒れている様子だった。家に戻り、仕舞い込んでいた、半月分の家賃をIsさんに手渡した。連帯保証人さんが受取りを拒んだ事も話した。僅か半月分の家賃といえども、Isさんにとって砂漠の中での慈雨であったようだ。それ以来、Isさんとは顔を合わしていない。それから10年近く過ぎてから、マスターに「Isさんはお元気ですか」と聞くと、「彼は何年か前に亡くなった、原因は知らない」との事であった。初老期の入り口での荒んだ生活では、身体に何が起きてもおかしくない。

 最近、この飲み屋の赤提灯がぶら下がったまま、シャッターが下りていた。夜になっても、そのままだった。近所の事情通の話では、夜逃げ同然に店を畳んだとの事だ。そういえば、最近、町で会うマスターは、憔悴しきった顔と足を引きずる様に歩く姿が痛々しかった。夜と昼をひっくり返した立ち仕事を30年近く続け、老齢期に入れば身体がガタガタにになってもおかしくない。破れた赤提灯はいつの間にか消えていた。

 駐輪シールは、台紙1枚に10枚のシールが貼り付けてある。数えてみると台紙は17枚残っていた。25年の間に三分の二を使った事になる。その間、何人が入居し、退室して行ったかは、数えた事がないので分からない。相当の人達が出入りしていたのは確かだ。残された駐輪シールは、何れ全て無くなるだろう。その時まで、自分が現役管理人で居られるか否かは分からない。何れにしても、現在の駐輪シールは自分の代で終わる事は間違いない。新しい管理人には、新しい駐輪シールを作って貰いたいからだ。

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