伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年5月8日: 部誌「報告3」に見る青春の記録 GP生

 3日前、TG君が「報告3」のPDF版が見つかったと、メールに添付して送ってくれた。「報告」とは東北大学ワンダーフォーゲル部の部誌名である。「3」は第3号を意味する。ワンダーフォーゲル部は自分が入学した昭和35年に同好会から正規の部に昇格した。先輩達の努力の賜物である。同好会は昭和32年に創会されたが、活動は教養部2年間だけで、学部に進学するとOB扱いとなった。従って、組織的な活動は行われていなかったようだ。「報告3」は同好会誌からバックナンバーを引き継いているので、No.3であるが、部報としては創刊号に等しい。

 「報告3」は、我々が一年生だった昭和35年4月から翌年3月までの活動報告である。全98頁に亘り記載・編集されている力作だ。編集責任者はTG君で、彼の能力が遺憾なく発揮されている。それまでの同好会誌は手書きのガリ版刷りだったが、「思い切って活版印刷にした」との、彼の誇らしげな言葉を今も覚えている。当時としては決して安くはない印刷費を、どうやって工面してきたのか記憶に無い。

 生活の場である瀬峰寮が卒業年の3月、自分の誕生日に焼失した。生活用品、書物や山の道具、そして山行記録と写真の全てが灰燼に帰した。ワンゲル時代の山行は記憶に残るのみだ。それすら加齢と共に薄れつつある。TG君が送信してくれた「報告3」は、50年以上前の記憶を次々に甦らせてくれた。「報告3」の中には、入学した年の青春が間違いなく記録されていた。山行の記録は詳細を究め、行動のタイムスケジュール、装備や医薬品、購入した食品の詳細と献立等が記載されていた。同好会から部に昇格し、部活動の骨格を作るべく、先輩達と一緒に努力した記録でもある。

 「報告3」の白眉は大雪山、石狩岳、十勝岳を縦走する「北海道中央高地 夏期遠征」の記録だ。昭和35年7月11日に長町駅から青森行き鈍行夜行列車に乗り、今はなき懐かしの青函連絡船で北海道へ渡り、7月31日に仙台に戻るまでの20日間の詳細な記録だ。行程記録はTG君、エッセン報告はWaさん、衛生はUmさん、総括はCLのTdさんが書いている。20日間のタイムスケジュールは分単位て詳細を究めていた。以前、この日誌に「遙かなる大雪・石狩連峰」の題で、この夏期遠征の思い出を書いた事がある。この時は、50年過ぎても消えずに残った記憶だけで書いた。「報告3」を改めて読み直してみると、当時の情景が滲み出る様に甦ってきた。

 会計報告を見ると一人当たりの金銭負担が6,400円とある。8人が参加したから、合計51,200円になる。仙台から層雲峡までの往路と、帰路の天人峡から仙台までの汽車賃、青函連絡船、バス等の交通費と20日分の食費だ。学割を使ったにしても、交通費は安かった。食料の調達はTG君と自分が主に行った。米4Kg、麦5Kg、パン80個、ジャム1Kg、味噌5Kg、鯨肉7Kg、マカロニ15Kg等々、全60品目の食品を購入したとある。目を引くのは緑茶200g、麦芽1Kg、生姜200gだ。16本の羊羹は非常食だ。想定しうる全て考えた食料総重量は190Kgであった。これだけの食料代金が27,600円、一人当たり3,450円にすぎない。

 二食付きの下宿料が5,000円から6,000円で、学生寮では、この半額でひと月を過ごせた時代だ。ラーメン1杯60円、学食のコーヒーが30円の記憶がある。TG君と一緒に山中での献立を考え、食材量を計算し、仙台駅前の日の出市場で買い揃えた記憶はある。野菜や生ものは旭川で調達しているが、記憶は全くない。今、これだけの事をしろと言われたら、献立を考える気力さえ無い。伝蔵荘の例会での夕食と朝食を考えるのが精一杯だ。あの頃は、憧れの北海道中央高地で、20日間に亘る合宿に参加出来る喜びで一杯だった。どのような労苦も厭わなかった。TG君とて想いは一緒であったはずだ。

 入部最初の山行は、「泉ヶ岳新入生歓迎登山」だ。新入生が49名参加とある。何時しか、「泉ヶ岳新人歓迎合宿」は恒例となったが、自分達が入部した時は、装備が貧弱で、大人数のテント合宿は出来なかった。結果、日帰り登山であった。参加した新人49名中、卒業まで残った者は13名に過ぎない。55年後の現在、4人が鬼籍に入り、1人は連絡が付かない。OB会や伝蔵荘の例会で、常時顔を合わせる同期は5人になってしまった。歳月は人の生き方を変える。学生時代からの付き合いが、続いている方が珍しいのかもしれない。

 長い闘病生活の後、この世を去ったTo君は、「日本アルプス車窓の旅」なる一文を書いていた。新宿から松本に至り、糸魚川から北上して秋田へ、南下して横手、山形経由、仙山線で仙台に至る車窓から見た、南アルプス、北アルプスの印象を淡々と記していた。To君らしい文章である。

 年間活動計画や個々の合宿計画、ダンスパーティーによる資金集め等々、部の運営の全てをTG君、To君と自分の三人で相談して決めてきた。猪突猛進する自分にブレーキを掛けるのが、クールを自称するTG君であり、意見が対立するときには、調整役のTo君が「まあまあ」と割って入ったものだ。この三人による部運営の様に、円滑に行われた組織運営は、その後の人生で経験した事は無い。三年の夏に、Waさんを含めた四人で行った剱岳から上高地までの縦走は、生涯最良の山行であった。悲しいかな、現在残るのはTG君と自分の二人だけだ。

 Ik君の一文「麻雀談義」は、「山に必要な勇気、緻密さ、根性、積極的な前進と思い切った後退、パーティーの強固とな団結は13枚の牌によって醸し出されるリズムと類似性がある」と説いている。麻雀好きな彼らしい牽強付会ぶりは見事である。コンパで、笠置シズ子の「買い物ブギ」を関西弁で歌う彼の姿が懐かしい。彼もまた、この世には居ない。卒業後に伝蔵荘の例会で一度会ったのが最後であった。自分に対して、「おい、生きていたか」との彼の台詞が脳裏に残る。もし会えるものなら、「おいお前、何故死んだ」と問いたい。

 山行は経験が物を言う。山が好きで入部しても高校時代、受験勉強一本で生活してくれば、経験が少ないのは当然だ。TG君は高校時代、八ヶ岳をホームグランドとしていたし、To君も山岳部に属していた。自分は中高校ともに山岳部に席を置ていた。浪人中も機会を見つけては、かっての山仲間と奥秩父や奥多摩に気晴らしに出かけたものだ。そんな経験を買われ、三人とも新人にして、上級生の部長のTdさんからバーティーリーダーやサブリーダに指名れたものだ。パーティーのメンバーに先輩を迎えたときには、気を遣った事を覚えている。

 長い時間、寝食をを共にするパーティーメンバー間のチームワークは極めて大切だ。お互い利害関係があるわけではない。性格の違いと学年の違いが有るだけだ。現役と浪人の混成軍だから年齢はばらばらだ。共通項の「山が好きな事」が団結のキーワードになる。リーダーとサブリーダーとの良好な意思の疎通が出発点であった。パーティーのチームワークがとれないと最悪の山行となる。合宿時のパーティーの番割を決めるときは、TG君、To君と共に真剣に議論をした事を覚えている。

 あの頃から50年以上の時間が経過した。年二回、八ヶ岳山麓の伝蔵荘に集う仲間は、当時と同じ感覚で話が出来、気持ちが通じ合える。「報告3」には、数々の山行が記録されている。この記録の裏には、山に魅入られ、山を愛する者同士の切磋琢磨が隠されていることは確かである。「報告3」を読みながら、積み重ねて来た、仲間達の記憶と山々の記憶が重層して心に刻み込まれいる事を深く感じた。

 寮の火災により、記憶以外の全の山の記録を失った自分にとって、プリントアウトしたセピア色の「報告3」は、青春時代の残された唯一のメモリアルである。社会全体がまだ貧しかった、あの時代の仙台で学生生活を過ごし、今に繋がる仲間と出会うことが出来た事は、老齢期を生きる自分にとって心の財産である。「報告3」は自分の人生の原点が、何処にあったかを改めて考えさせてくれた。

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