伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年3月1日: 東北大学片平キャンパスへの想い GP生

 昨日、TG君が「東北大学片平キャンパス・北門」の写真を送信してくれた。東北大学メールマガジンに掲載されていた物だ。写真を見ると、かっての北門は無く、「片平ほほえみ通り」と名付けられた開放的な道が写されていた。通りの右手には、昔ながらの旧金属工学科の建物が有り、ここが北門が存在した場所であることを示していた。写真を眺めていたら、遥か昔の片平丁校舎での学生生活が思い出され、暫く感慨に耽っていた。

 自分が入学時、最初に通学したキャンパスは、仙台市の西の外れに在る川内分校であった。ここで教養部の2年間を過ごし、学部の専門課程は片平丁の本校に進学するのが通例であった。川内分校の場所は、かって日本最強を誇った旧陸軍第二師団の駐屯地で、戦後、米軍の施設として利用されていた。米軍退去後、大学の施設となった。当時は、アメリカ流の白いペンキで塗られた木造建造物が軒を連ね、校内は非日本的な雰囲気で、違和感を覚えたものだ。ワンダーフォーゲル部の部室もこれ等の建物の二階にあった。昭和35年の事だ。片平丁の本校も、今ではほとんどが青葉山キャンパスに移り、片平丁には幾つかの研究施設と事務棟しか残っていない。

 川内分校から片平の本校に来ると、戦災を免れた建物や敷地の中心部にそびえ立つ公孫樹の木々が醸し出す、重厚な落ち着きが感じられた。正門は敷地西側の米ヶ袋側にあったが、学生達は余り使わなかった。仙台の繁華街の中心である東一番丁を南に進むと、そのまま大学の北門に至る。北門手前の通りの左右には学生相手の飲食店が並んでいた。この立地の良さが北門の魅力で、周囲に何もなく、ぼっんと離れた感がある正門が使われない理由でもある。

 この通りに、三色大判焼きの店が在った。今川焼の大型版で、小豆あん、白あん、それに緑色のズンダの3色が楽しめた。当時、甘い物が好きな自分は、此の店をよく利用した。友人達と幾つ食べられるか競争したことを思い出す。此の店の反対側にあった、ズンダ餅店も良く利用した。いずれの店も学生価格なので、我々貧乏学生でも腹いっぱい食べられた。

 北門を抜けて暫く行くと、右手に公孫樹の大木に囲まれた一角に、学食「公孫樹」が在った。昼飯はもっぱらここを利用した。一番安い目玉焼き定食をよく食べたことを思い出す。此処での忘れられない思い出がある。ワンゲルの同期で、一時、三百人町の下宿で一緒に生活をしたTa君の事だ。彼は色白の細面な青年で、少し度の強い眼鏡をかけていた。その彼が、年上の人妻と懇ろになった。人妻は訳ありの女性で、旦那は長期の不在中であった。Ta君は此の人妻に魅せられ長逗留となった様だ。或るとき、卒論実験をしている自分の研究室に、Ta君が青い顔をして現れた。「如何している」と聞くと、「体力には自信があったが、身体がもう持たない。腹が減って、飯を食いたいが金がない。何とかしてくれないか。」と言う。Ta君と一緒に「公孫樹」に行き、食べたのが目玉焼き定食であった。

 Ta君をこの儘にしてはまずいと思い、同じワンゲル同期のIk君と相談をした。二人でTa君を説得し、関西の実家に帰すことにした。Ik君と割り勘で関西までの切符を買い、仙台駅ホームで見送った。これがTa君との別れで、以来、彼とは会っていない。現在も音信不通である。山仲間で、下宿生活を共にしたTa君は、今、何処で如何しているのだろうか。Ta君を一緒に送ったIk君とは、伝蔵荘の例会で一度顔を合わしたが、Ik君らしい元気な言葉とは裏腹に、身体のやつれが気になった。暫くして、彼の訃報が届いた。葬儀でのIk君の兄さんの悲痛な挨拶が忘れられない。

 北門を真直ぐ進むと五橋に通じる道に当たる。道を挟んで反対側に在るのが鉱山工学科の木造2階建校舎だ。此処で2年間を過ごした。教養部時代は、山行、また山行で、勉強に励んだ記憶は余りない。おかげで、教養部卒業に3年を要した。片平校では、勉強に精を出した。卒論は選鉱学で卒業前の1年間は浮遊選鉱の実験に明け暮れした。指導教官のMa助手には大変お世話になった。温厚な人柄で、後に教授で退官されたと聞いている。自分が卒業して仙台を去る日、ホームまで来て、見送ってくれた。卒業できたのは、Ma助手のお蔭でもある。

 卒業の年の3月4日、瀬峰寮が焼失した。自分は卒論実験の追い込みで、研究室に寝袋や生活用品を持ち込んで寝泊まりしていた。この日は、自分の誕生日でもあり、将来を約束した女性と喫茶店で誕生日を祝っていた。夜、良い気持ちで研究室に還ると、宿直の人から「君の寮が燃えている」と聞かされた。瀬峰に帰る終列車は既にない。止む無くタクシーを走らせた。汽車でも1時間半を要する遠隔地だ。瀬峰寮に着いた時は、古い木造長屋は完全に灰燼に帰していた。後輩が寒さに耐え兼ね、禁断の電気コンロを秘かに使用した漏電が原因だった。当時、寮長だった自分は後始末に奔走し、卒論の仕上げどころではなかった。書きかけの卒論を仕上げてくれたのがMa助手だった。卒論発表会で、Ma助手と自分の合作の卒論を発表したのが、昨日の事の様に思える。

 当時の鉱山工学科の自分達のクラスは、日本人19名、留学生3名の少所帯であった。留学生は台湾から2人、インドネシア1人であった。3年、4年合わしても50名にも満たない。工学部は毎年秋に運動会を開いていた。場所は広瀬川沿いの評定河原のグランドだ。当時、運動会に勝利すべく、仲の良かったOn君と一緒に作戦を立て、鉱山科全員で頑張った。結果、準優勝を勝ち得た。100名、150名の大所帯の機械科や応用化学科を相手にしての準優勝だ。運動会を終え教室に帰った時、沢山の酒が用意されていた。「工学部に鉱山工学科有り」と知らしめた、我々に対する先生方の慰労であった。先生と学生が一体となった一時でもあった。同じ寮生のMi君、Ka君と一緒に、どうやって仙台発20時35分の青森行き鈍行列車に乗り込み、瀬峰寮に帰り着いたか記憶にない。このMi君、Ka君共、卒業後に、若くして自ら命を絶った。後に妻子が残されていた。On君も若くして、病によりこの世を去っている。

 片平校の西側にある街並みが米ヶ袋で、当時、古い木造住宅が並んでいた。米ヶ袋は緩い傾斜地にあり、上丁、中丁、下丁と続き、先は広瀬川に達する。自分の入学時の下宿先は、中丁にあった。古い木造住宅で夫婦に中学生と小学生の男の子、それにお婆さんの5人家族で、下宿生はKoさんと言う物静かな大学院生と自分の二人であった。朝食と夕食は7人全員で一緒だった。質素な食事だけど、昔の良き家庭の雰囲気を色濃く残し、心温まる食事であった。家族のお婆さんに対する尊崇の念と、一家長たる主人に対する畏敬の思いは、自分達にも良く分かった。仙台藩の上級武士の末枝と聞いて、納得したものだ。米が袋のこの丁名も今は、味気ない名前に変わっている。

 川内分校での記憶の殆んどはワンダーフォーゲル部に係るものだ。長い浪人生活から解放された反動が有ったのかもしれない。より長い教養部生活を送ったのも、その後の人生を思うと必然であった様にも思える。身勝手であった自分の学生生活を黙って許してくれた亡き両親に、今も感謝している。川内とは異なり、片平校での学生生活は学生の本分に従ったものであった。ワンダーフォーゲル部同様、片平校での充実をもたらしたのは人との出会いであった。心に残る記憶は、人との関わりを除いては考えられない。

 毎年、貴重な仲間がこの世を去っていく。それでも心に残された記憶や想いは生涯の財産でもある。何れ、我が身と思うが、もう少しこの世での時間が残されている様にも思える。人はこの世で独りでは生きられない。若い時も、老年期でもだ。孤独な青春は心の病をもたらし、孤独な老後は生きる意欲を蝕む。東北大片平キャンパスの北門の写真から、古い記憶が呼び起こされたが、これまでの自分の人生を振り返る時、生きていく糧は仙台での学生生活で培われたものであることに間違いない。道を誤らず現在に至れたのは、当時の人間関係により磨かれた魂のお蔭ともいえる。

 先日、区役所から「後期高齢者保健証」が送られてきた。免許書更新のための後期高齢者講習も受けた。これから華やかな人生が待っている訳ではない。日々の生活や仕事上での悩みと対峙することは続くであろう。後期高齢者の入口に立ち振り返ると、今まで、自分がどれだけ多くの人達に支えられてきたかを痛感している。先に旅だった亡き友人達の為にも、この世でもう少し頑張ってみようと思っている。

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