伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2015年2月14日: マルクスの「資本論」とピケティ T.G.

 今月号の文藝春秋の連載コラム「ベストセラーで読む日本の近現代史」を読む。元外交官で評論家の佐藤優氏が、過去のベストセラーを題材に蘊蓄を語る内容である。切り口が面白いので毎回愛読している。

 今回取り上げたのはマルクスの「資本論」である。ベストセラーとは言えないが、19世紀以来のロングセラーであることは間違いない。「資本論」は膨大かつ精緻な経済学教科書で、全3巻、目次と前書きだけで60ページあるという。世界的に超有名な著作だが、全巻読破した人はごく少数しかいない。東大経済学部の先生でも、ほとんどが読んでいないと言う説がある。多分本当だろう。佐藤氏は無類の読書家で、3回読み返したそうである。その彼の「資本論」に関する蘊蓄である。

 彼によれば、今話題のフランスの経済学者ピケティ氏は、「資本論」を精読しているとは思えないと言う。ピケティの資本や賃金の概念はマルクスとはまったく異なっている。マルクスは賃金を資本家と労働者の力関係で決まるとしているが、ピケティは賃金を利潤の分配と考える。ここまで真っ向から食い違ったら、先達のマルクスの賃金論に一言論評があって然るべきだが、それがない。また、すっかり有名になった「資本の収益率(r)>所得の伸び率(g)」が格差を増大させ、資本主義を崩壊させる」と言うピケティの主張は間違いだと指摘する。「(マルクスを含めて)過去にも同じような資本主義崩壊論はたびたび出されたが、実際に資本主義が崩壊したことは一度もなかった。資本は恐慌を繰り返し、人間を阻害しながらも再生産を繰り返す力がある。ピケティはそれを過小評価している」と言う。

 またピケティは資本主義崩壊を食い止めるため(マルクスのように資本主義をやめろとは言っていない)、資本への累進課税による富の再分配を提案しているが、この提案は現実性がない。やるとすればグローバルな資本に対抗できる強大な国家が必要になる。マルキシズムがそうだったように、権力をバックに国家が経済に干渉することになる。国家的平等を実現するファシズムやスターリニズムが生じ、結果的にマルクスの共産主義と同じことになってしまう。そう言う意味で、ピケティの提案は絵空事だと言いたいらしい。同感である。ピケティはアベノミクスを批判し、成長より格差是正が重要と言うが、それでは格差がなくなる前に国が潰れてしまう。

 マルクスの資本論は精緻で論理的な考察に基づいているが、ピケティはそうではない。彼の手法では過去の経済データから、“r>g”を導き出しているが、論理ではなく推察に過ぎない。言い方を変えれば当てずっぽうである。基となったデータには、ろくな経済統計もなかった時代の曖昧な数字も含まれている。統計というものは、ある規模の有意な母集団と数学的手法が不可欠である。そうでないと自分に都合のいい数字だけを集めることになる。科学とは言えない。もしかすると、資本主義の元でも、r<gだった国や時代があったのに、それを無視しているだけなのかもしれない。

 佐藤氏によれば、「資本論」3巻のうち、マルクス自身が書いたものは第一巻だけで、残りの2巻はマルクスの草稿を元に盟友のエンゲルスが書いたものだという。だから文体がまるで違うという。マルクスの第一巻の文章は哲学者のような雰囲気があるが、エンゲルスの二巻、三巻は役人が書いたような無味乾燥な文章だという。その上、マルクスの草稿をそのまま書き写していないので、マルクスの草稿と比較すると、地代論など重要な部分で解釈にかなりの違いがあるという。佐藤氏は原文の草稿まで読んでいることになる。これ以上の熟読はあるまい。

 佐藤氏は「資本論はマルクスが展開する議論の筋道を追って読んでいくと、必ず理解できる」と言う。「資本論」が極めて論理的だと言うことだろう。さらに付け加えて、「資本論が難解なのは、マルクスが経済学者であり、かつ革命家であるという二つの魂があるからだ」とも言っている。マルクスは「資本は剰余価値を生産することにより、本質的に資本を生産する。つまり搾取である。搾取をしない資本家はいない」と結論づけ、資本主義社会は抜本的に転換すべきと飛躍する。ここから革命家の顔が現れて、第一巻第24章で次のように言う。

 「この転換過程のあらゆる利益を横領し、独占する大資本家の数の普段の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって、訓練され組織される労働者階級の反抗も増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外外被とは調和し得なくなる一転に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」

 それまでの科学的、論理的な記述には似つかわしくない、まことに飛躍的で非論理的な革命論である。整然とした論理の中に、突然こういうエモーショナルな記述が現れたら、読んでいる者の頭は混乱するに違いない。佐藤氏は「この記述は資本の蓄積から論理的に導くことは出来ないし、当時のイギリス資本主義の歴史的事実を解明したものでもない。共産主義イデオロギーの立場から、マルクスが資本主義を非難した箇所と解釈するのが妥当だ。」と言っている。同時に、「後世のマルキストの絶対多数は、マルクスが間違ったことを言うはずがないという“信仰”にもとづいて「資本論」を読んだ。そこから論理性、実証性を欠いた共産主義という危うい信仰が台頭してしまった」と結論づけている。

 経済学は元来金儲けの学問である。マルクスの「資本論」は、経済学を悪用するととんでもないことになると言う教訓である。これがために世界中が大災厄を被った。その災厄の規模は、物理学の悪用である核兵器をはるかに上回る。スターリンは自国民を2千万人殺し、毛沢東は7千万人を死に至らしめた。その災厄はいまだに続いている。最近あちこちで持て囃されている、耳障りのいいピケティの「格差解消論」も、そうならなければいいが。

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