伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年12月19日: 板室温泉で年末恒例雪見の忘年会 T.G.

 年末恒例の雪見の温泉忘年会に出かけました。いつもの伝蔵荘仲間6人です。Fu君のオデッセイに相乗りして現地に赴きました。昨年の板室温泉が良かったので、今回も同じ板室の別の温泉宿にしました。湯治客料金が1泊7300円とかなりリーズナブルです。料理はほどほど、値段相応でしたが、とにかく温泉が素晴らしい。いくつかある大きめの内湯や露天風呂に、豊富な湯が24時間どうどう流れ込んでいます。溢れた湯をそのまま捨てているところを見ると、正真正銘の源泉かけ流しです。加温循環していたらとてもそんなことは出来ませんから。これだけの湯量があれば、温泉旅館が楽に10軒は作れるでしょう。実にもったいない。

 翌日は朝から雪。宿で沈殿組と山歩き組に分かれ行動。山歩き組は上流の深山ダムまで車で上がり、ダム湖の末端から雪の山道を三斗小屋宿跡まで歩きました。片道7キロの緩やかな登りです。三斗小屋宿跡までは4輪駆動車なら上れる林道ですが、冬の積雪期は閉鎖され進入禁止になります。ちょうど大寒波が襲来した日で、降雪の中往復4時間かけて歩きました。雪道の散策は楽しいものです。三斗小屋跡は標高約千メートルの台地になっていて、昔は街道の宿場だったそうです。今は宿の建物は取り壊されてありませんが、開けた台地の片隅に墓地があって、雪を被った墓石が立ち並んでいました。当時は小さな集落があったのでしょう。この先那須岳方面に3キロばかり登ると三斗小屋温泉に至ります。今の時期は営業していません。

 江戸時代、この山道は峠を越えて会津に到る街道で、Oi君の説によると会津藩の参勤交代にも使われたそうですが、今は奥深い山道で、その面影はまったくありません。わずかに残る三斗小屋宿跡がその当時を偲ばせています。前の日誌に書いた吉村昭著「桜田門外ノ変」によると、大老井伊直弼を暗殺した水戸家臣、関鉄之介等は、日本中を逃げ回った後水戸に戻り、袋田の滝を越えて板室から三斗小屋宿に到り、ここにしばらく潜伏した後、会津に逃げたとあります。おそらくこの山道を通ったのでしょう。この本を読んで日誌に書いたときは、会津へ逃げるためになぜ鉄之介等が山奥の三斗小屋宿に立ち寄り、滞在したのか、理解できませんでしたが、現地を歩いてみて納得できました。

 ダム湖から上の風景は、やや開けた谷に粉雪が舞い、人気がまったくありません。登るにつれ雪が深くなってきます。途中発電所の建物がありタービンが回る音が谷に響いています。上方の沼ツ原調整池から落とした水で発電しているのでしょう。しばらく進むと、上の方から四輪駆動車のジムニーが降りてきました。聞くと三斗小屋温泉の人で、これから行く三斗小屋宿跡に車を置いていて、今日でこの道が閉鎖になるので降りてきたとか。我々が降りてきたときには、ダム湖のゲートは閉まっていました。

 宿へ帰ってからは温泉三昧です。露天大浴場は男湯と女湯が日替わりで入れ替わりますが、この日は上等の方でした。昨夜入ったもう一つの方とは断然差があります。露天風呂もゆったり広く、雰囲気があります。聞くと土日を含めた週に4日は女湯に使い、残りの3日が男湯なのだそうです。今時は女性にサービスしないと客が来ないのでしょう。我々湯治客用の部屋は、部屋の真ん前に内湯があって夜中でも入れます。丑三つ時に寝床から這い出して、人気のない温泉にどっぷり浸かる気分は何とも言えません。かけ流しの湯の音だけが聞こえて、しみじみ温泉の良さを感じます。

 翌朝は宿を遅めに出発して帰途に着きました。途中でいつものチーズガーデンに立ち寄って、宮内庁御用達のチーズケーキでモーニングコーヒーを楽しみました。帰宅したら台風並みに発達した低気圧で東北北海道が暴風雪。翌日は那須町でも30センチの積雪だったとか。この日だったら三斗小屋宿跡にはたどり着けなかったでしょう。

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