伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年9月24日: 朝日新聞による「吉田調書誤報」事案を考察する  U.H

 TG先輩が触れられた件を取りあげて、二番煎じをするのもおこがましいが、これまでの「軽いタッチ」を捨てて、敢えて挑戦することとした。先輩、お許しあれ!

 私事になるが 小生は、中学、高校で学校新聞部に在籍した。 そこでの教材に、「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」とあった。 「人が犬を噛む」という事象は滅多にあるものではないだろうから、不断の追求努力がなければニュース源はなかなか見つけられないと、当時 肝に銘じたものである。

 この度の朝日新聞の「吉田調書誤報」の経過を見てハタと感じたことであるが、 「有能な記者/デスクは、目の前の事象からあらかじめニュースストーリーを想定して、そのストーリーが劇的に成立するように事象を繋ぎ合わせる」という点と、そうすることで「有り難い事象」を創作するのだと。 さらに進めて「企画されたキャンペーン」に関して真実/事実を追求するよりも、いいとこ取りでストーリーを形成するにだと。 こうした行為も、すれすれのところで成立すれば特ダネとなるのであろうが、独善が過ぎると今回のような羽目になるということだろう。 しかし有能なはずの人材が、なぜこんなお粗末な独善事例を引き起こしたのかが、大いなる疑問である。

 ここまで考えて来て思い当たったのは、「このようなアプローチは(マスコミ/朝日新聞のお家芸というより)我が民族の性向に根ざした根本的な事柄」が影響しているのではなかろうかということである。 数年前のことであるが、検察が自分で作り上げたストーリーに基づいて被疑者を追い込み、場合によっては証拠までねつ造したという経過がたびたびあったことはご記憶であろう。 我が国のエリート層とおぼしき組織集団において、「身勝手なストーリー作り」が横行し、 それがまかり通るとその当事者が組織内で出世していく事象を数多く見てきた。 なぜそうしたことが淘汰されずに罷り通るのか、その背景こそが根本的課題であろうかと思量する。

 我が国ではなぜか「現場」「現実の事象」「厳然とした事実」などのミクロ的な事柄が低次元のこととして軽視される。一方で、マクロ的、仮想的、観念的に設定された事柄を都合良く構築していくことに重きをおき、それにすべてを委ねてしまう傾向がある。 「現場」「事実」などの事柄は、きわめて厳粛な存在であって、それらを蔑ろにしたり無視したりすることは天を冒涜することのはずだが、なぜか我が国社会では「作られた事柄」「観念的なストーリー」が平然と罷り通る。

 先の大戦において、欧米と我が国の経済力や資源、軍事力の決定的な差に目をつぶって、軍部が独善的な作戦計画を実行して亡国を招いたのもその典型的な例であろう。 そして東日本大震災の津波被害や福島原発等に対する危機対策において、より厳しい防災対応の課題も指摘されていた一方で、行政や事業遂行の立場からより安易な水準に準拠してきたことも同根と思われる。 つまり都合の悪いこと、より厳しい見通しには目をつぶり、勝手な想定に基づくつじつま合わせで事を運ぼうとすることが国家・社会全般に蔓延っているのである。

 話は少し脱線するが、我が国の政界、官界、企業社会などの多くの場で、文系が理系の上に立つ構造も、上記の背景、すなわちミクロの現実/事実よりも観念による想定に依存していく文化に基づいた構造的事象と言えないだろうか。

 では、このような文化現象が我が国に蔓延ってきた背景は何処にあるか。 その最大の要因は、我が国の気候風土が総じて温暖・平穏で、二千年に渉る農耕民族としての営みがそうさせたと思われる。 ジンギスカンを生んだような遊牧社会であれば、ひとたび冬営地の選択を誤れば一族の滅亡を招いてしまう。したがってもっとも能力ある人材が、高度な情報収集力に基づいて選択をしたと言われる。 狩猟民族の世界でも同様で、情報や具体的な知識・判断に頼って生き残っていく。 その点、我が国のような気候風土における農耕社会では、希に未曾有の災害などがあるにせよ、多くの世代は平穏な繰り返しの時間を過ごしていけるため感覚そのものが甘くなり、事実よりも観念が先行するような風土が蔓延するのであろう。 また「希に訪れる災害」に対しては「致し方なし(想定外)」と受け入れて来たのである。

 では朝日新聞ならではの構造的原因は何か。

  1. 近世、現今の我が国の政治を野党的な視点から徹底的に批判すること、を社是としている。
  2. この場合、是々非々で批判する、事実に基づいて批判するというより、むしろ作られた「キャンペーン論理」に基づいて、いいとこ取り、つじつま合わせによって構成し、批判する。
  3. 「事実こそ厳粛な存在である」という認識がともすれば希薄で、作られた観念の世界にのめりこんでしまうような風潮が組織を支配している。
  4. そのような風潮を諫める自浄作用が総体的に欠落している。

 ということであろう。

 朝日新聞は過ちを一部謝罪しながらも、相変わらず「時の政府に対する批判報道」が責務であると自賛しているが、果たしてこのようなレベルの組織体において、報道という責任、時の政府を批判するという役割が果たせるものかどうか、あまりにも心許ない。しかし 「我が国の民度」に起因しているとなれば、自戒して当たるしかないようである。

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