伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年8月30日: 追悼、亡き山の仲間を偲ぶ GP生

 Waさんの訃報に接したのは、8月25日の午後だった。一瞬、言葉に詰まり息 を呑んだ。あまりにも突然の知らせだった。2日前に30分近い長電話をし たばかりだった。肺癌の腫瘍が癒着し背中に痛みが出いてた事は、大分前から 聞いていたが、今は夜眠れない程の痛みが生じていた。末期癌特有の症状だ。 本人は、もう死にたいと弱音を吐いていた。その時は話しの最後に「頑張って みる」との言葉を聞いて受話器を置いた。気になったので、1日置いて電話を何 回もかけたが、応答は無かった。嫌な予感がした。既にこの世の人ではなかっ たのだ。地元秋田での葬儀には参列し、ご遺族に請われ、友人代表として次の ような弔辞を読んだ。

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 Waさんと出会ったのは、昭和35年4月、東北大学ワンダーフォーゲル部の 部室でした。この年の夏合宿は北海道の大雪・石狩連峰の縦走でした。一年生で はTG君と私の二人のみの参加で、残り六人は1年先輩のWaさん達の同期生でした。二週 間、Waさん達と北海道の大自然を満喫しました。
 それ以来、Waさんとは、合宿や個人山行で数えきれない行動を共にしました。 三年の時、Waさん、To君、TG君、それに私の四人で、北アルプス連峰の剣 岳から上高地まで縦走した事は、忘れられない経験です。To君は難病の末、帰 らぬ人となりました。
 Waさん、明日は上高地へ下山と言う前日、最後のキャンプ地、涸沢のテント場 で、四人が満天の星を眺めていたことを覚えていますか。溜息をつきながら、人 がここまで自然に溶け込めるのかを実感しましたね。

 Waさんとの山行で、忘れられない思い出があります。私が二年の春休み、W aさんと共通の悩みを抱えました。これからどうするかを考える為、宮城県と山 形県の県境にある二口峠の無人小屋、伝蔵荘に二人して籠りました。東北の3 月の山はまだ一面の雪です。周辺の山を歩いたり、雪洞を掘り、ビバーク用のテ ントで夜を過ごしたことも在りました。二人だけの時間は幾らでもありました。 夜、ローソクの明かりの中での会話は、尽きる事はありませんでした。途中、T G君が心配して来てくれたことを覚えていますか。食料 が尽きて、仕方なく二 人して、寂しく山を下りたことを覚えています。心に傷を持つ者同士の想いが、二人を強く結びつけたのかもしれません。この時 の体験が、五十年を過ぎた現在も、本音で話が出来、短い言葉でお互いを理解で きる関係の原点であったと思っています。

 卒業後は、お互いの道を進み、親しく話しをする機会は、余りありませんでし た。ところが、平成23年の正月にWaさんから突然電話を貰いました。「昨年 の秋、脳梗塞の為、目が見えなくなった、俺はもう駄目だ」と、意気消 沈した 声でした。

 仙台時代、Waさんから「おい、俺は困っている、話を聞いてくれ」式の相談 はよく有りました 。しかし、失明は次元が違います。とにかくWaさんの 話を聞くことに徹しました。それからです、月二回を目標に定期的に電話を掛け る事にしました。どんな不幸でも、辛い事でも、乗り切るための回答は自らが出 すしかありません。それには、理解してもらえる相手に心の内を語ることが大 事だと思ったからです。Waさんは思いのたけをぶつけてくれました。何回も 話している内に平常心を取り戻し、前向きに生きる意欲が溢れてくるのを感じる 事は、それから何回も有りました。

 Waさんはその後も病魔に襲われましたが、時間をかけ、気持ちを立て直し ているのは、電話で良く分かりました。すごい精神力を持った人です。詩吟の会 への参加も、生きる意欲をもたらす一助になったと思っています。

 平成24年の8月です。「今、詩吟・春望を習っている。聞くか」と問われ ました。「聞かしてくれ」と言うと、「受話器を耳から離せ」です。杜甫の「国 破れて山河あり 城春にして草木深し・・・」と、朗々とした大声のWa節が聞 こえてきました。
 その後です。身体不調を訴え、「俺は長いことはない 生きる気力がな い」と 言い始めました。「Waさん、大声の詩吟を聞かせる人が吐くセリフですかね」 と言うと、「ウンダな」と答えてくれたものでした。
 「龍や 龍」や日露戦争の乃木希典将軍の詩「爾霊山」も聞かせてくれました ね。そうです、「知床旅情」も歌ってくれました。歌っている時のWaさんは、 何の屈託もなく 、人の心を豊かにしてくれました。何回も、電話で話している うちに、いつの間にか、私の心が癒されていることに気が付くことも有りました。 Waさんが人に優しいのは、生来の人徳ですね。

 Waさんの愛すべきハチャメチャぶりは、学生時代から有名でした。周りがハ ラハラしても 、Waさんはいつの間にか元の軌道に戻っていました。Waさん は好奇心旺盛で、事に臨んで積極的でした。勢い余って、飛び出してしまうので しょう。

 卒業後、Waさんの活躍は風の便りでしか分かりません。ですが、永年薬剤 師会で尽した功績で、平成11年秋に旭日小綬章の叙勲を受けたことは、渡辺さ ん生涯の誇りだと思っています。東北大ワンダーフォーゲルOB五百余人の中で、 叙勲の栄誉に輝いたのはWaさん唯一人です。
 叙勲を終えた後、帝国ホテルの一室で奥様と一緒にお会いしましたね。その時の Waさん は、仙台時代のイメージそのままでした。同席した、TG君、Sa君 を交えた楽しい語らいは忘れられません。結局、それが最後の出会いになってし まいました。

 Waさんとの定期電話の後、TG君とSa君にメールで話しの詳細を送って いました。二 人は、ワンゲルでWaさんと最も親しく、何時もWaさんの事を 心配している山仲間だったからです。

 渡辺さんの訃報に接し、改めて、3年8ヶ月間の送信メールを読み直してみま した。Waさんがどれ 程の苦難と格闘し、克服してきたかが良く分かります。 新たな、病が出現して、一時は落ち込んでも、必ず気持ちを立て直してました。 最近では、奥様に対する感謝の言葉が多くなりました。Waさんが奥様に甘えす ぎているとの反省の弁も有りました。Waさんが日常生活を行えるのは、奥様の 手助けが、どれだけ支えになっているかを具体的に語ってくれました。

 ショートステイも不安があるけれど、奥様が楽になるのなら頑張って見ると は、最後の電話 での会話でした。その時、「先日、奥様と話した時、是非、W aさんから活弁クズランコを聞かしてもらって下さいと話したので、頼みます よ」とお願いしました。けれど、願いは叶はぬ夢となりました。

 奥様から訃報の電話を受けた時、現実を受け止められませんでした。時間が 経ち、気持ちが落ち着いてきて、今回のWaさんのアクシデントは、人の何倍も 積極的に生きてきた、Waさんらしい人生の幕引きだと思うようにしています。 ですが、心の奥の寂しさが、消える事はないでしょう。心を許しあった真の友の 死が、これほど辛い事とは思いもしませんでした。

 この世で、人は肉体に魂を乗せ、人として存在していると聞いています。肉体 の死は魂の 乗り船の破損です。人の本体である魂は、壊れた肉体を離れ、あの 世に還ります。Waさんの魂は、今頃、あの世に戻っているのでしょう。 好奇心の強いWaさんの事ですから、あの世から自分の葬儀を見ていると思いま す。「お前の弔辞は長すぎる、余計なことは言うな」と、文句を言っているかも しれません。

 Waさん。私は今しばらくこの世に残ります。何れこの世での役割を終え て、あの世に還ることになります。Waさんに会えるかどうかは分かりませんが、 もし会えたら、Wa節で「クズランコ」や「詩吟」聞かせてください。 50年以上前に、縁あってWaさんと出会えたことを感謝しています。 今暫く待っ居てください。

  永遠の山の仲間 Waさんへ

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 Waさんは脳梗塞予防薬を飲んでいた。いわば、抗血液凝固剤だ。同じ副作用 を持つ抗癌剤Ts−1は、だいぶ前に服用を中止していた。前日の夕方、Waさ んは階段から転落し腰を打った。骨折もした。すぐに救急搬送されたが、内出血 が止まらない。輸血も追いつかなかった。脳梗塞予防剤が血液の凝固を妨げたか らだ。出血多量で翌日深夜亡くなった。高脂血症の予防薬で、間質肺炎を起こし、 脳梗塞の予防薬で命を奪われた。高齢者はいつの間にか足腰が弱ってくる。 昨年末からの入院生活で、下半身の筋力が奪われたのだろう。歳を取ってもスタ スタと早足で歩いたWaさんにも、筋力低下が忍び寄っていた。予防薬が、命を 失う原因になるとは、何の為の予防なのだろう。

 TG君からは、体調不良のお前は無理するなと忠告を受けたが、秋田での葬 儀には参列をした。行かなければ悔が残ると思ったからだ。帰京してみて、葬儀 に参列してよかったと思っている。弔辞で、Waさんと最後の語らいがてきたこ とで、自分の心に踏ん切り付けられそうだからだ。親しかった山の仲間との別れ が、これ程、辛いことだと思わなかった。Waさんの最後の顔は穏やかであった と奥様から聞いた。苦しまずにあの世に旅立ったのだろう。 Waさんの冥福を心から祈るのみだ。

            合掌

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