伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年8月22日: 芥川賞受賞作「春の庭」を読む。 T.G.

 文藝春秋九月号掲載の芥川賞受賞作「春の庭」(柴崎友香作)を読む。テーマ、内容はともかくとして、文章が拙い。芥川賞で毎回感じることだが、この程度の文章が日本を代表する純文学登竜門に選ばれる作品と言えるのだろうか。候補作品はこれ以外にも4編あったそうだが、これより評価が下だとすると、出来映えは推して知るべきである。芥川賞の選考には、文藝春秋への営業上の配慮として該当作無しがないのだろうか。それとも選考基準が甘くなったのだろうか。日本文学の水準が下がったとは考えたくない。

 著者柴崎氏の受賞インタビューを読むと、夏目漱石の愛読者だという。漱石の文章をお手本にしているという。好きな作品は「草枕」だという。おそらくその文体を真似ているのだろうが、それにしてはお粗末である。比較にならない。冒頭に現れる「女に視線を移す。まったく同じ位置のままだ。」のように、簡潔な単文を接続詞を用いず繋いでいく文章作法は、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」にそっくりだが、文体模写はそこまでである。全編を通じて、漱石の流れるような文章とはほど遠い。単文構成の度が過ぎて、「…大家の隣の家。水色の家。」などと舌っ足らずな連体終止形を多用しているのは、漱石模写とすればお粗末である。作者オリジナルとしたらやはりお粗末である。漱石をお手本にしたのなら、部分的な様式でなく文章全体の流れとテンポ、文章の緻密さを見習うべきだ。

 冒頭の7行目に出てくる、「アパートは、上から見ると“「”の形になっている。」と言う文章はいただけない。先を読み進める気が失せる。いくらなんでも純文学で“「”はないだろう。まるで出来の悪い漫画かメール文だ。文学は文章のみで表現する芸術である。“「”が「カギ括弧」を意味するつもりならそう書けばいい。それで十分である。いくらなんでも“「”はない。少なくとも純文学ではあり得ない。そう言えば、全編を通したテーマ描写は、中身の薄い少女漫画のようである。先入観を排除するため、芥川賞選評は作品読了後に目を通すことにしている。その中で選者の一人村上龍氏は「私はこの1行で感情移入がまったく出来なくなった。描写は作家にとって最も重要で、唯一の武器である。描写によって作家は読者を虚構の世界に引きずり込む。他にも同じような箇所があり、なぜそんなことをしなければいけなかったのか、分からない」と言っている。まったく同感である。自分と同じく、彼はこの作品を評価していない。

 ほかにも目障りな記述がたくさんある。そこを通過するたびに読む気力が萎える。「ああいう雲は何千メートルの高さがあるって言うな。」、「名字が変わるとかは別に良かったが墓のことは考えなかった」、「結婚とか愛とかっていいのかも知れない」、「タローは美術作家に転校してベルリンへ移住(当時のインタビューで離婚に触れていた)。」、「タローのことはまったく出てこなかったし、馬村かいこのたとえば公演のことや友人関係も書かれていなかった。」、「絵がうまい、と西は感じ入った。」などなどである。意味は十分に通じるが、文学作品の描写ではない。子供の日記レベルである。村上龍的に言えば、感情移入が妨げられる。

 最も我慢がならない文例の典型は次のようである。
「一時、高校生ぐらいのころは、生物の進化には意志が関係していてこうなったらいいのにと言う願望がある程度反映されるのだと思っていたが、生物学や進化論ではそれは正しくないらしいことも知っているし、今は太郎自身も、こういった奇妙な生態を知る度に、なんだかわからないがそう言う仕組みができてしまってできてしまったから続けている、延々と続けている、それだけのことではないかと考えるようになった。」(文章、句読点ママ)

 これが天下の芥川賞作品の文章だろうか。文章の論理構成も句読点も目茶苦茶である。頭の悪い高校生の文章である。漱石の文章とはほど遠い。意味するところは何とか理解できるが、文章になっていない。本来論理的でない人間が、無理に論理的なことを書こうとするとこうなる見本である。だから文章が脈絡もなく、だらだらと長くなる。出現する二つの主語、太郎と生物と述語の対応があやふやである。だから論理が曖昧で読みづらい。スッと頭に入ってこない。頭の中で修飾構文の対応を解釈しないと理解できない。漱石の流れるような文体の真逆である。選者達はこういうおかしな文章が気にならないのだろうか。自分ならとても耐えれれない。内容以前に落第である。

 総じて最近の芥川賞作品の文章はレベルが低い。この作品もそうだが、昔なら箸にも棒にもかからなかった。前の日誌にも書いたが、太宰治は芥川賞が欲しくてたまらなかったが、もらえなかった。選者の一人川端康成に初期の作品「晩年」の原稿を送り、受賞を請うたが叶わなかった。その“落第作”と比べても、今頃の芥川賞の文章は段違いにレベルが低い。比較にならない。おそらく選者達のレベル自体も下がっているのだろう。

 さて内容である。文章が駄目でもテーマ、内容が良ければ救われる。東京の住宅街の一軒家を取り巻く住民達の、ごく平凡な生活を淡々と書いている。ただそれだけである。生活感はあるが、彼らの特段の心情や懊悩や主張や価値観が書かれているわけではない。そう言うものを一切排除して、ひたすら客観描写に徹しているように見える。そう言うものが文学として成り立つなら一幅の絵ではある。しかし読んでいて何の感興も湧かない。「朝起きました。ご飯を食べました。寝ました」という子供の絵日記を読んでいるようである。選者の一人、高樹のぶ子氏は、「すべては散逸し、流動する運命にあることを、静かに明るく書いている。…カメラが過去にまで入り込み、語ってくれる」と、この手法を評価しているが、肝心の文学として訴える内容がない。

 こういう主観を排してカメラで俯瞰撮影するような作品の手法について、選者の宮本輝氏は、「(同様の作品を)長い間地道に書き続けて、今回の受賞につながった」と選考の舞台裏を明かしている。そうだとすると、この描写手法は柴崎氏にとって確信犯的常套手段なのだろう。選者達はそのことを知っているのだろう。内容はさておき、その程度のことが芥川賞になるのだとすれば、芥川賞は努力賞に過ぎない。とうとう芥川賞がもらえなかった太宰治の嘆きが聞こえてくるようだ。

 その売り物の淡々としたカメラ俯瞰目線が、物語の最後で一転する。前の日に主人公が庭を掘り返した一軒家で女性の死体が発見され、警察が捜査している。主人公がアパートの階段を下りていくと、「あなたは昨日何時頃お帰りになりましたか?」、「何をおっしゃりたいんですか刑事さん。」、「はい、オーケー!」と、それまでとは異質の、安物のテレビドラマ風会話のやり取りが書かれる。最後の最後で、そう言う非日常を錯覚させるようなどぎつい描写がなぜ必要なのだろう。これでは出来の悪いトリックに過ぎないではないか。カメラ目線で、平凡な住民達の平凡な日常を淡々と描写することがこの作品の命であるとするなら、まさしく蛇足、画竜点睛を欠いた見本である。

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