伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年7月26日: 明善寮退寮騒動 T.G.

 朝日新聞と産経新聞の朝刊に東北大学の明善寮退寮騒動の記事が載っている。学生自治寮の明善寮で10年ほど前から学生の飲酒トラブルが相次ぎ、「共用スペースの窓から嘔吐(おうと)したり、深夜に花火を行ったりする寮生が続出。外壁は嘔吐物で汚れたまま放置され、急性アルコール中毒で病院に搬送された寮生もいて、」、「近隣住民からの苦情も相次いでいた。」のだという。何度も改善を申し入れたが学生側が応じず、業を煮やした大学側が9月末を期限として全寮生160名に退去を申し渡したと言うから穏やかでない。大学側は「「悪しき慣習を断ち切るには、いったん全員を退去させることが不可欠。」とし、退去後、汚れた外壁やカーペットなどを一新させた上で、来年度から3年生以上も入寮させることを検討していると言う。

 明善寮は旧制第二高等学校の学生寮である。戦後二高が東北大学教養部に吸収されるとともに東北大学の学生寮になった。一高→東大の駒場寮、三高→京大の吉田寮と同じである。 我々の頃は今の鉄筋コンクリートと違い、戦前からの古びた二高時代の建物を使っていた。古色蒼然とした雰囲気と歴史の積み重ねで、学生寮の中で抜群に知名度、人気とも高かった。我々東北大学の新入生は、戦後に作られた東北大学校歌より先に明善寮寮歌を憶えたものだ。一高の「嗚呼玉杯に花うけて」、三高の「紅萌ゆる丘の花」と並ぶ三大寮歌で、校歌に等しい扱いを受けていた。コンパで歌われるのはもっぱら明善寮寮歌で、妙に戦後的で薄っぺらな、ラジオ歌謡のような校歌はまず歌われたことがない。

 我々の頃も学生寮は旧制高校的バンカラ気風を残していて、明善寮に限らず、飲酒、酔っぱらい、反吐、窓から小便は日常茶飯事だった。夜便所に行くのが面倒だと、洗面器に用を足し、窓から捨てる不届きものもいた。教養部の学生は二十歳前だから、明らかに違法飲酒だったが、誰も咎めなかった。バンカラが嵩じて近隣から苦情が来ることもなかった。明善寮は戦前からの広い敷地に建てられていて、近隣との摩擦が起きることもなかった。社会が大学生に寛容で、多少の悪さも許容されていた。学生のバンカラも一定の限度をわきまえていて、稚気の範囲を逸脱しなかった。社会の鼻つまみになるようなこともなかった。今は同じことをしても許されない。学校や社会からチンピラのごとく糾弾される。学生が幼稚化して学生らしい知性を失ったのか、社会に寛容さがなくなった故か。おそらくその双方だろう。

 自分は別の学生自治寮にいたが、寮生活はどこも似たようなものだった。同じ数学科の友人が明善寮にいたので、時々遊びに行った。今にも壊れそうな木造の建物で、二人一部屋。壁が壊れて大穴が空いていて、隣の部屋と自由に行き来が出来た。ご多分に漏れずどの部屋も敷きっぱなしの万年床と散らかったゴミで畳の目が見えなかった。麻雀をやっていて、うっかりサイコロを落とすと見つけるのに苦労した。あまりの不潔さに赤痢が蔓延したこともあると言う。夜な夜などこかの部屋でコンパをやっていて、酔っぱらい、反吐、高歌放吟は当たり前だった。誰も文句は言わなかった。

 現在の明善寮と同じく、今の学生寮は一人部屋が当たり前だそうである。二人部屋は嫌われるらしい。卒業後しばらく経って明善寮を訪れたことがある。鉄筋コンクリートの安アパートのような殺風景な建物に変わっていて、全室一人部屋。ドアに鍵が付いていた。我々の頃は二人部屋が当たり前で、ドアに鍵などなかった。どこの部屋にも自由に入れた。今は違う。子供の頃から個室を与えられている今どきの学生は、他人との共同生活に耐えられないのだという。学生時代の若者同士の共同生活は、対話や議論の機会が増え、人間力を磨く好機だと思うのだが。今どきは人間力よりプライバシーの方が重要視されるらしい。

 自分の経験でも、寮生活は飲酒と酔っぱらいだけでなく、対人関係の幅を広げる好機であった。学生同士の会話は、友情をはぐくみ、お互いの切磋琢磨で知力を向上させる。採用試験で企業が重視するコミュニケーション力も磨かれる。今どきの学生の会話は学生らしい知性がなく、酒の飲み方も居酒屋の酔っぱらいと大差ないのだろう。だから愚にもつかない一気飲みで急性アルコール中毒事故が起きるのだろう。だから明善寮騒動が起きるのだろう。大学の学生寮が巷のアンチャンレベルでは世も末である。日本人は子供の育て方を間違えたようだ。

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