伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年7月8日: 集団的自衛権騒動、雑感 T.G.

 このところ集団的自衛権なるものが喧しい。新聞テレビでいろいろなことを言っているが、今ひとつピンと来ない。なぜこの程度の問題で世界の終わりのように騒ぐのか。集団的自衛権とはいったい何なのか。良いことなのか悪いことなのか。悪いことだとすると、なぜ悪いのか。もっと端的に言えば、日本を良くするものなのか、悪くするものなのか。よく分からないが、これだけ騒ぎになるのだから、どちらかには違いない。

 そもそも集団的自衛権などと言う妙ちくりんな日本語は昔はなかった。少なくとも我々が学生の頃には教わらなかった。自分も最近になって知った。どうやら憲法9条を解釈する上で、便宜的に使われるようになったごく新しい日本語らしい。おそらく英語にもフランス語にも中国語にもない。ウィキペディアで調べてみると、英語では“right of collective self-defense”、フランス語では“droit de le'gitime de'fense collective”だという。つまり英単語にも仏単語にもないと言うことである。言葉がないのは概念がないと言うことである。ないから仕方なしに長ったらしい文章で書かねばならない。分かったようで分からない、とても不自然な言葉(文章)である。1945年に国連が出来たとき、国連憲章51条に書き込まれた文言だという。

「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」(国連憲章第51条抜粋)

 分かりやすく言えば、「勝手に戦争してはいけないよ。やるときは国連が助けに行くまで、みんなで仲良くやりなさい」と言うことである。それぞれの国に手前勝手に戦争をやられたら国連の立場がないと言うわけだ。それを言うためにわざわざ個別自衛権と集団的自衛権を分けて書いたのだ。それまでは個別も集団もへったくれもなかった。すべて自衛戦争だったのだ。1945年以前も以後も、戦争はすべて個別、集団ごちゃ混ぜの自衛戦争だったのだ。侵略戦争だって広義の意味では自衛である。日本以外の国ははなからそう思っているので、集団的自衛権などで大騒ぎはしない。彼らは日本がなぜこんな当たり前のことで大騒ぎするのか分からない。そもそも集団的自衛権という言葉も知らない。英訳して教えると「なんのことだ」とキョトンとされると言う。

 そう言うわけだから集団的自衛権の正しい意味は“right of collective self-defense”である。それ以上でも以下でもない。直訳すれば「(武力攻撃を受けたとき)同盟国と協同して自衛にあたる権利」である。当たり前を絵に描いたような話しである。なぜこんな当たり前のことが大騒ぎになるのかといえば、英語が苦手な日本人が勝手な解釈をするからである。朝日新聞などが「戦争をする権利」とか「徴兵制が狙い」、「アメリカの戦争に引きずり込まれる暴挙」などと、愚にもつかない解釈で世論を引っ張ろうとする。だから混乱が起きる。こんな意図的誤訳をされたら国連が怒るだろう。「集団的自衛権」なる言葉の著作権は国連にある。

 そもそも日本での騒ぎの元凶は憲法9条である。この平和憲法の条文に、すでに認められている個別的自衛権のほかに、集団的自衛権も含まれるか否かである。それをめぐっての喧々囂々である。それなら9条を読んでみればいい。たちどころに分かる。騒いでいる人たちの大半は、おそらく生まれてから一度も9条の全文に目を通したことがない。

「 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(日本国憲法第9条)」

 どこをどう読んでも、個別自衛はいいが、集団的自衛は駄目だとは書いていない。もっと言えば、個別自衛ならいいとも書いていない。自衛隊の存在だって怪しいものだ。軍を隊にしたら軍隊ではないとでも言うのか。世界第6位の戦力は絵に描いたような軍隊ではないか。どこをどう読めば個別自衛ならいいと解釈できるのか。軍でなく隊ならいいというのか。このまやかしがいわゆる憲法解釈である。個別自衛ならいというのは解釈によるまやかしである。軍ではなく隊であるから戦力ではないというのは詐欺に近いまやかしである。個別自衛ならいいが集団的自衛は駄目というのはヤクザの言いがかりに近い。これでは世界に冠たる9条が泣く。この70年、こういうまやかしで過ぎしてきた日本は、まともな国とは言えない。

 真に重要なことは、「日本には自衛が必要な脅威はないのか、もしあったらどういう自衛策をとるのか、その策は日本単独で可能か、さもなくば友好国の手助けが必要か、それが必要な場合、友好国に対しても手助けの義務があるか」の議論である。出来損ないの意味不明の憲法条文の解釈などどうでもいい。そのために政府があり国会がある。憲法があるから国があるのではない。その政府と国会を作るのは日本国民である。憲法も同じく。下手くそな英文和訳の日本語で書かれた9条の、重箱の隅をつついていてはどうにもならない。

 こういう国の根幹にかかわる国家安全保障の政策議論は憲法解釈でやるものではない。国家のあり方に憲法がそぐわないならさっさと改正すればいい。どこの国でもそうしている。今頃になって朝日新聞などが憲法解釈ではなく憲法改正が筋などと言い出しているが、護憲を看板にしてきた新聞が今さら何を言うか。それならそうとはっきり書け。宗旨を変えましたと。解釈でなく9条を改正しろと。及ばずながら朝日も応援すると。

 安部が憲法解釈変更を急ぐのは、中国の軍事力脅威が増しているからである。憲法改正は本筋だが、時間がかかる。それでは間に合わないおそれが多分にある。だからとりあえずは拙速を重んじて憲法解釈変更で行こうという作戦である。問うべきはこの状況認識と政治判断の正否であって、9条解釈変更の是非など問題ではない。個別自衛権だって、自衛隊発足直後の1954年の国会で解釈改憲したのだ。それまでも否と言うなら9条否定そのものである。

 と、ここまで偉そうなことを書いた手前、自らの立場を旗幟鮮明にする必要がある。

 集団的自衛権はごく当たり前のこと。世界中の国がそうしている。国連も推奨している。日本だけが行使できない理由はない。中国の軍事力脅威に日本単独の自主防衛では立ち向かえない。国連お奨めの集団的自衛しかない。その行使は憲法解釈で充分である。解釈改憲は今までも何度もやってきた。9条改正ならなおさらいい。出来ることなら早くそうしてもらいたい。
 集団的自衛権を認めたからと言って、すぐに戦争が始まるわけではない。敵国に自国の存立が脅かされなければ戦争にはならない。アメリカの追従で戦争するわけではない。アメリカの戦争に巻き込まれるわけでもない。自衛戦争の決意と実行は政府の仕事である。その政府を選ぶのは日本国民である。国民が議会制民主主義を遵守していれば、日本が戦争を起こすことはない。前の戦争は日本国民がそれを怠ったから起きた。憲法解釈が原因ではない。

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