伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年6月30日: 墓参りと墓地 T.G.

 先月亡くなった義兄の連れ合いの納骨に、御殿場の富士霊園に行った。富士山麓の広大な斜面を切り開き、何千もの墓地の区画が作られている。急斜面に広がった墓地は、とても歩いてはいけない。特にこういう場所の愛用者であるご老人達には不可能に近い。そのための園内バスが出ているが、厄介なことには変わりない。ひと坪ばかりの墓地の区画はすべて同じサイズ。墓石も同じ形に統一されている。これが何千区画もあるのだから、探すだけでも大変である。うっかり番号を忘れたら、それこそアリババと四十人の盗賊状態になる。何度も訪れている義兄達もメモの番号頼りに右往左往している。やっとたどり着いて納骨を終えた。

 坊さんがお経を上げている間周りを見渡すと、墓石が取り除かれ更地になった新しい区画があちこちにある。以前はなかった。開園以来50年近く経っているこの霊園は古い方から区画が埋まる。この辺りは全部埋まっていたはずなのに。聞くと檀家料に当たる墓の管理料を払わず、誰もお参りに来なくなった無縁墓地が増えているのだという。そう言う区画を整地して新たに売り出しているのだという。なんと虚しい話しだろう。この高額で洒落た墓が、40年もたたないうちに無縁墓地になってしまう。墓を求めた人はどう言う事情があったのだろう。取り出した骨壺や遺骨はどう処分しているのだろう。誰も引き取り手がないのだから、廃棄物として処分されてしまうのだろうか。遺骨とはいったい何なのか。墓にどういう意味があるのか。いささか考え込んでしまった。

 大学1年の時、お寺の中にある学生寮で過ごした。伊達家ゆかりの由緒ある寺で、伊達政宗の墓のほか、代々の伊達家家臣達の墓があった。墓地は鐘楼の下の昼なお暗い木立の中にあった。授業をサボって境内の隅にある井戸端で洗濯しているときに覗いてみたが、苔むした墓石に家臣達の名が刻まれていた。あたりの雰囲気も手伝って、江戸時代にタイムスリップした様な気分になった。

 先年家人と東北旅行の途中で立ち寄ってみた。境内に入ると、なにやら昔と雰囲気が違う。寮で暮らしていた頃は、鬱蒼とした木立に囲まれたお化け寺のようだったが、空が広がって明るい。よくよく見ると、例の墓地の木立がすっかり切り払われている。開けっぴろげになった墓地は、ブルドーザーで掘り返されてきれいに整地されている。聞くと新たに墓地として売り出すのだという。すっかり興が冷めて、家人に昔話をする気も失せ、早々に立ち去った。

 伊達家の菩提寺に葬られた伊達家家臣の墓が廃棄される。江戸時代は土葬だったから、大量の遺骨が掘り出されたに違いない。その骨はどう始末したのだろう。富士霊園と同じ産業廃棄物にしてしまったのだろうか。伊達本家は維新後仙台を捨て東京へ移った。戊辰戦争の賊軍だった伊達の侍達もちりぢりになった。檀家として墓守をする人も絶えて久しい。事実、我々が墓所の上で寮生活している間、誰一人お参りをする姿を見たことがない。無縁仏状態が150年以上続いたのだ。年月は経っていても、なんと言っても伊達家の菩提寺である。伊達家の墓の守りどころなのだ。その寺にしてこの所行。富士霊園は言うに及ばず、日本中の寺の墓地がこれ以下の扱いなのだろう。いったい墓にどんな意味があるのか。

 まだ墓を作っていない。周りに聞くと大抵がすでに持っているか、手当を済ませているという。ないのはうちぐらいらしい。「どうするの?」と時々家人に聞かれるが、そのたびに生返事をしている。墓は入る人のためではない。墓に参る人のものだ。墓参りの都合で決める必要がある。自分勝手に言えば、秩父あたりの山奥の、ひと気のない鄙びた山寺がいいが、誰もそんなところにはお参りに来てくれない。そんなところに作ったらはた迷惑もいいところだと家人に叱られる。それも確かだ。誰もお参りに来てくれないし、すぐに無縁仏になって廃棄物処理されるだろう。瑞鳳寺のやり口を見ればよく分かる。

 かなり本気なのは、今流行の散骨である。山が好きだから山がいい。富士山の頂上からお釜に向かって撒いてもらう。山好きの後輩にでも頼んだらやってくれるだろう。孫には、富士山が見えたらジイジの墓だと思って拝むように言っておく。秩父の山奥だと、孫はおろか、仕事で忙しい息子さえ足が遠のくだろうが、富士山ならどこからでも見える。わざわざ墓参の煩わしさがない。家人にそれを言うと、そんないい加減なことを人に押しつけるなとお冠である。やるのはあなたではなく私でしょとにべもない。それもそうだ。そんなわけで未だに墓がない。

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