伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年6月9日: 人は死ぬのに、なぜ生きるのか GP生

 我が家では三匹の雌犬を飼っている。一匹は老境に入ったミニチュアダックス、 一匹は中年のシーズー、最後の一匹は青年期のシーズーだ。皆それぞれ個性的で、 感情表現がとても豊かだ。彼女達の最大の関心は、食べる事と飼い主に可愛がっ てもらうことで、それ以外は何の興味も示さない。二つの欲求が満たされれば、 後は、寝ているだけだ。 人は、食べて、愛されて、寝るだけで、全てが満たされる訳がない。「なぜ、生 きるのか」を、深刻に考えざるを得ない人は多いようだ。

 ブログに「何れ死ぬのに、どうして生きるのか? その死とは、いったい何な のか?」との問いかけが為されていた。これに対して、「死んだら全てが消えて しまう」、「生まれてきたら、死ぬのが自然なのだ」、「生が否定されない唯一 の理由は、子孫を残すことだ」、「生きるとは何かより、どの様に生きるかに価 値がある」、「死とは人生の終わりだ」、「死ぬために生きている、ならば、い つ死んでも同じだ」、「死ねないなら、最初から生まれてこなければよかった」 等の書き込みがされていた。

 「人は何れ死ぬのに、なぜ生きるのか」との問いに、万人が、納得出来る答は 難しい。人は夫々、人生観が違うからだ。若い時には、余程の事情が無い限り、 この様な疑問は生じないだろう。老化や死は、無限の彼方の出来事に思えるから だ。歳を取り、深刻な病気や、経済面の困窮、希望を見出せない生活に直面する と、「何故、生きるのか」が現実味を帯るのかもしれない。お隣の韓国ほどでは ないにしても、わが国でも高齢者の自殺が、増加傾向にあるようだ。苦労して生 きて、その先にあるものが、自らの命を絶つことだとすれば、余にも悲しい。

 今月初め、政府は昨年度の「自殺対策白書」を発表した。前の年より自殺者は 減少したものの、それでも2万7千人余だ。内、男性が7割近くを占めている。 年代別では60歳台が最も多く、70歳、80歳台では前の年よりわずかに増加 していた。自殺の原因は「健康問題」が約7割、「経済・生活問題」が2割強で あった。個々の場合には、健康問題と経済・生活問題は密接に絡んでいるのだろ う。

 自殺は、人がこの世で生きる意義を見失ったり、絶望した結果の行為だ。救い を求めて、命を絶つのだろう。毎年、これだけの人が、死を選んでいることを思 うと、多くの人が、「死んだら、全てが消えてしまう」から、不治の病も、経済 の困窮も、人間関係の悩みも、孤独も、全て消えて救われると信じているのだろ う。本当に、全てが消えてしまうのだろうか。

 日本の歴史上、今ほど国民が恵まれた時代は無い。それでも、人が一生を全う する上での悩み・苦しみは尽きない。 法然や親鸞が活躍した時代は、世は乱れ、民衆は苦しみにあえいでいた。民衆は 親鸞の教えに救いを求めた。所謂、「他力本願」だ。「南無阿弥陀仏」を唱えれ ば、阿弥陀仏の本願にすがって、極楽往生出来るとの教えだ。「南無」は「帰依 する」との意味だ。「阿弥陀様に帰依します」と唱える事で、極楽往生を信じ、 この世の「生」に耐えたのだろう。本来、自らを救うのは「自力」であり、「他 力」にすがるものではない。親鸞達は民衆を救うため、便法として「他力本願」 を用いたのだろう。自力とは言え、救いが、「自殺」であるとすれば、阿弥陀様 にすがったほうが、どれだけ良いかしれない。

 宗教は、人の心を救う為にある。しかし、仏教は、葬式仏教に堕しているし、 新興宗教は現世利益を説いている。極端な教義を唱えるカルトを信奉する若者も 多い。釈尊の教えを要約した「般若心経」ですら、内容を理解することなく、読 経したり、写経をしたりすることに熱心だ。自分の菩提寺では、定期的に写経の 会を催している。「有難いお経」だから、功徳があると教えているのだろう。何 故、「功徳がある」のかを教える事はしない。釈尊の教えが分からなくなり、人 の心が乱れた世を、仏教では「末世」と呼んでいる。多くの人が、生きる意味が 分からなくなり、苦しみから逃れる為に、自らの命を絶つことを思えば、現在は 「末世」と言える。発達した文明は、生活に利便性をもたらしても、悩める心を 救ってはくれない。

 「死んだら、全てが消えてしまう」ことは無いと思っている。人は、肉体と魂 が一体となって存在しているからだ。肉体は目で見えるから、存在を疑う人はい ない。問題は、魂だ。五感で感じることは出来ない。勿論、目で見ることも出来 ない。感じる事が出来ないから、存在しないと結論付けるのは早計だろう。科学 で証明できないから、存在しないと言う人も居るだろう。現在の科学とて万能で はない。脳の神経構造を幾ら研究しても、心の存在と働きを説明できない。科学 の進歩により、将来、心の実態を証明できる日が来るかもしれないが。

 人の死は肉体の死であって、魂の死ではない。人の臨終に立ち会えば、魂の存 在を感ずることが出来る。病室のモニターの血圧が次第に低下し、30台の半ば を過ぎると、突然、0に降下し、心拍の波形は横一線となる。肉体が生命力の一 切を失った瞬間だ。この時、顔が一瞬にして変化する。赤味が消えて青白くなり、 表情の一切が消え、無機質になる。生命活動が終わった途端、この様な物理的変 化が、何故起こるだろうか。肉体の死により、重なり合って存在していた魂が抜 けたのだと考えると合点がいく。人から物体に替ったのだ。自分は、臨終を迎え た父の病室で経験した。感動を覚えるほどの荘厳な瞬間だった。

 肉体は魂の乗り物と考えられる。乗り物を失った魂は、あの世に還り、肉体は 「地」に戻る。人は魂が見えないから、死んだら全て消えてしまうと感じるのだ ろう。自殺した人達の肉体は命を失うが、魂は肉体を離れるだけだ。この世で生 きた証は肉体ではなく、魂に記録されている。この世に絶望し、苦しみから逃れ る為に死を選んでも、魂は記憶を抱いたまま、旅立つことになる。肉体は死んで も、魂に残された苦悩は消える事はない。2万7千余の自殺者達が、生前、死ん でも救われない事を知っていれば、命を絶つことは無かっただろう。

 「ならば、生まれてこなければよかった」との意見がある。人の誕生で、無意 味なものは何一つとしてない。皆、目的があって生まれて来たのだ。けれど、産 んだ親も、生まれてきた本人も、「この世へ誕生する目的」は判らない。胎児に 宿った魂は、この世での目的を意識しても、誕生と同時に、潜在意識の中に閉じ 込められてしまうからだ。成長しても、潜在意識が顕在化する訳ではない。人は、 存在はしても、認識できない目的を求めて、手探りで生きる事になる。だから、 生きている限り、悩みが尽きる事はない。

 悩みを通り抜けた後、人は成長する。この繰り返しが人の心を成長させるのだ ろう。人にとって、この世での目的の一つが、心、即ち魂を成長させる事だと思っ ている。潜在意識が開け、進むべき道筋が分かっていたら、問題と回答を事前に 知った受験生同様、人は努力しなくなるだろう。先が見えない毎日があるからこ そ、生きる意味が生じるのだと思う。

 人は死に向って生きているのは事実だ。「死とは人生の終わりだ」とは、「こ の世では」との限定つきだ。肉体は滅びても、死ぬことのない魂は永遠の存在だ。 時を経て再びこの世に誕生する。「どうせ死ぬのなら、いつ死んでも良い」とは、 肉体が死ねば、全て消えると考えるからだ。この誤解が、人をどれだけ不幸にし ていることか。

 自殺が自分自身に対する冒涜であるのは、魂を成長させるのに必要な肉体を、 自らが破壊してしまうことにある。肉体は両親から授かった、唯一無二のものだ。 自らが、生まれてきた意義を否定することになる。人にとって自殺が最大の罪で ある理由がここにある。自殺者は、犯した罪により、あの世で、更なる苦しみに 苛まれることになる。自殺は、決して救いにはならないのだ。

 高齢者の自殺が多いのは、健康問題にある事は理解できる。老老介護とか認認 介護とかの言葉があるくらいだ。裏に経済問題もあるだろう。経済力があれば、 解決出来る事は多い。人間70歳を過ぎれば、生きてきた結果が厳しく問われる ことになる。健康然り、経済然りだ。本人の努力だけでなく、運不運もあるだろ う。生きてきた結果が問われる高齢者なら、自分が何の目的を以て、生を受けた のか、その一端を感じられるかもしれない。

 人の肉体は何れ、この世での役割を終える。歳を取れば、身体の傷みは増すば かりだ。病んだ肉体を慈しみ生きることも、この世での修行なのだろう。歳を取 り、身体の健康を保ちながら、心の成長を心掛ける事は、並大抵のことではない。 これが、人に課せられた使命であれば、心して生きるしかないと思っている。

 以前、「心と身体と伝蔵荘日誌」に書いた通り、高橋信次師には心の在り方を、 三石巌先生には身体の在り方を、共に著作を通じて教授を受けた。退職後の自分 が、道を誤ることが無かったのは、両師の存在なしには考えられない。自分が、 これ等の著書に出会った時、両師共、既に亡くなられていた。あの時期、これ等 の著書との巡り合いは偶然ではない。何かの導きによるものと信じている。今も、 目に見えぬ導きに感謝している。

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