伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年6月3日: 小学校のクラス会と母校見学 GP生

 先日、小学校のクラス会を出身校の町で行った。昭和27年卒業だから、爾 来62年になる。仲間から、出身校の小学校を見学出来ないかとの要望があり、 今年卒業した孫の担任を通してお願いをした。副校長から快諾の返事を貰い、当 日は、副校長自らが校内を案内しくれた。

 校舎は、自分達の時代の木造2階建ては既になく、鉄筋3階建てに替っている。 校庭を見渡しても、当時の建造物はコンクリート製の校門のみだ。当時は、校庭 の特等席に、二宮金次郎の石像が鎮座していたが、既に姿はない。校舎の近くに 在った、天皇皇后両陛下のご真影を収た立派な建物は、自分達が入学して暫くし て取り壊された。進駐軍の通達に因るものだろう。当時の物で校庭に残っている のは、3本の巨大なヒマラヤスギだけだ。

 最初に案内されたのは、校舎3階にある資料室だ。初代校長以下何人かの写真 や、戦前の学校の写真とか、古い学校用品が雑然と並べられていた。部屋の隅を 見ると二宮金次郎の石像が転がっていた。足の下部は欠けていて、錆びた鉄筋が 剥き出しになっていた。薪と書物は残っているものの、頬は欠け無残な姿であっ た。少年期の金次郎は、勤勉と勉学を両立させた努力の象徴として、何処の小学 校でも、一段高い台座の上に置かれていたものだ。

 自分達が卒業した昭和27年には、金次郎像は健在だった。両陛下のご真影を 撤去させた進駐軍ですら、金次郎像には手を付けなかった。何年頃、撤去された のか聞いても、誰も知らなかった。戦後民主主義が世に蔓延し、日教組の力が強 くなった昭和30年代以降の撤去ではないかと想像した。二宮金次郎の精神は封 建の遺物の考えられたのだろう。無残な姿で、資料館の隅に転がされた像を見れ ば、現在の学校で、金次郎が何の関心も持たれていない事が分かる。時の流れと 時代の変化を感じたのは自分だけだろうか。

 資料室で雑談している時、誰かが、「私たちが入学した時は、国民学校だった のよ」と話していた。自分には、全くの記憶が無く、「そうだったの」と返すの みだつた。調べてみると、昭和22年3月30日に、国民学校は廃止されていた。 自分達は、昭和21年4月の入学だから、一年間、国民学校に通学したことにな る。昭和16年3月、教育勅語、皇国の道、国体に対する教育を趣旨として制定 された国民学校は、僅か6年で消滅した。此の教育の反動として、日教組による 戦後民主主義教育が在るのだろう。左右いずれのしても、行き過ぎたイデオロギー 教育は、国民を不幸にし、国を過らせる。我々の世代は戦前の教育を受けた先生 ばかりだ。所謂、戦後民主主義教育に縁が無かったのは幸いだった。

 資料室の片隅に、長細い古びた木の板が立て掛けられていた。良く見ると、自 分達の時代に校門にはめ込まれていた、校名板だった。良く残っていたものだ。 仲間達も懐かしがって、撫でまわしていた。傷つき、汚れ、部屋の片隅に放置さ れていた校名板は、将来の自分達の象徴に思えた。

 資料館の次に、理科実験室を見学した。廊下を歩きながら、授業中の教室を覗 くと、黒板の横に置かれた、巨大な液晶ディスプレイが目に付いた。何処の教室 にも置いてある。理科室にも同じものが置かれていた。横幅2メートル以上、縦 幅も1メートルを超えている。副校長の話しでは、試験的に導入したものだそう だ。理科室も奇麗に整理されていた。学校の設備が近代的に装いを変える事は喜 ばしいことだが、学校教育の基本は教師の力量であることに論を待たない。

 この学校が地域の人気校として、遠隔地から生徒が集まってくるのは、教師達 の努力の現れであろう。昨年、二人の女の子を持つ家族が自分のマンションに入 居してきた。上の子は幼稚園年少さん、下の子は2歳だ。将来共に、この小学校 に入学させたいとの事であった。また、今年の3月、埼玉県に住む家族が入居し てきた。今年2年生になる女の子を、この小学校に編入させるためだ。入居者は 母親と女の子のみ。父親は仕事の関係で埼玉の自宅住まいの別居生活だ。義務教 育で一番長い小学校生活を、良い学校で過ごさせたいとの強い親子心なのだろう。 これも、少子化の影響なのだろうか。

 自分達が6年生の時の教室は理科室であった。我々の学年は、一クラス50人 以上で5クラスもあった。学校全体で1000人を超えていた。当然、教室は足 りない。理科室まで動員されていたのだ。現在は少子化の時代で、一学年で複数 クラスが出来ない小学校も多い。自分達の小学校は地区の人気校で生徒が集まり、 全学年3クラスだ。他校でも例が少ないそうだ。廊下で挨拶する子供達も明るく 元気だ。「こんにちわ」と子供達から声をかけてくる。子供達の服装を見ていて、 自分達が入学した頃の服装を思い出した。母が祖母のネルの着物を仕立て直した 長袖を着た、当時の写真が残っている。

 この小学校では、本格的な給食室を設けている。2,3年前に半年かけて設備 を一新した。現代病たる各種アレルギーに対処した給食も作っている。孫達に聞 いても、学校給食は大変おいしいと言っている。特に、学校の名をかしたラーメ ンは名物でもあるそうだ。我々の時代、給食で進駐軍放出のコンビーフの缶詰を 食べたのを覚えている。マーガリン付のコッペパンに、脱脂粉乳が定番になった の何年頃だろうか。

 クラスメイトは全員、後期高齢者の入り口付近だ。遥か昔の事であっても、校 内を廻り、説明を受け、雑談に耽っている内に、当時の事が思い出されてくる。 当時の家庭では、親が子供に手を懸ける余裕は無かった。親とて、生きるのに精 一杯いの時代だった。自分の境遇を考えても、父はシベリアに抑留され、昭和2 2年、23年と相次いで祖父母か亡くなった。苦しい生活の中で、母は葬儀を出 し、子供を養った。似たような厳しい家庭環境は、日本中何処でも見られた時代 だ。過保護なる言葉は辞書になかった。碌な食物は無くとも、子供達は皆、明る く元気だった。逞しかった。現在の様に、物心両面共に恵まれ過ぎた子供達は、 果たして、本当に幸せなのだろうか。

 今年のクラス会は14人が集まった。卒業時には男子28名、女子26名だっ た。亡くなった友達は既に6名。「連絡不要」との知らせを受けた友達は9名を 数える。所在不明の仲間達も多い。女子のかなりの人は夫に先立たれているし、 夫の介護をしていて出席できない女子も多い。連れ合いの介護をしている男子は 一人も居ない。女性の生命力の強さを見る思いだ。

 小学校見学後は、何時もの店で会食が始まった。話を聞いていて、皆の心が、 あの頃の心に還っているのが分かる。平成3年の第1回クラス会から数えて、今 年は第25回になる。休まず毎年行ってきた。会合を重ねる事で、子供時代の事 が思い出され、童心に戻れるのかもしれない。この様な仲間は、小学校のクラス 会以外にはいない。参加者は、心身に大きなトラブルが無く、家庭環境も恵まれ た人達だ。60年以上の歳月は、人の運命を大きく変えるのだろう。

 毎年、クラス会が終わると、会計報告や写真の整理をして、出席者に発送して 自分の役割は終わる。今年は、「欠席」の返信を貰った仲間にも、クラス会の報 告と集合写真の何枚かを送付した。来年以降のクラス会に参加するきっかけにな ればとの思いからだ。このクラス会が、後何年、継続できるかは分からない。他 の二人のクラス委員とは、「第30回 80歳が目標だね」と話している。

 人間幾つになっても、悠々自適の生活は永遠の夢だ。生きていく上の悩みも尽 きない。年に一度、童心に戻れる小学校のクラス会は、一服の清涼剤であると思っ ている。

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