伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年5月5日: 懐かしき我らが昭和20年代 T.G.

 最近、所用があって昭和54年発行の「通商産業省30年誌」に目を通した。現在の経済省である。その中の産業政策年表の末尾に「海外関係」という項目があって、これが実に面白い。仕事を忘れて読みふけった。特に昭和20年代が興味深い。昭和20年代と言えば自分が小中学生の頃である。戦後の混乱期でまともな歴史教育を受けなかったため、このあたりの出来事は分かっているようで存外知らない。以下に2、3個人的な感慨を書く。

 年表はもちろん昭和20年8月15日から始まる。それより前は空白である。2日後の8月17日にスカルノがインドネシア共和国独立宣言をしている。その10日後の28日にベトナム民主共和国臨時政府が出来、翌月の9月8日に朝鮮人民共和国樹立が宣言されている。分断された今の南北朝鮮ではない。この一連の独立の動きは堰を切ったようで、まさに電光石火。これに較べると他のアジア各国の独立の動きはもう少しゆっくりしている。例えばフィリピン共和国が出来たのは21年7月だし、インドとパキスタンの独立は22年8月、ビルマ、セイロンの独立とイスラエル建国は3年後の23年である。朝鮮については、その後李承晩が大韓民国樹立を、金日成が朝鮮民主主義人民共和国樹立をそれぞれ宣言し、現在の南北朝鮮にはっきり分断されたのは23年の8月と9月のことである。終戦から3年も経った後で、彼ら自身が望んで行ったこの分断まで、いまだに日本の責任にされるのはいささか業腹である。

 イスラエル建国を除き、これらアジア地域の旧植民地の独立開放は、結果論として旧日本帝国の怪我の功名といえよう。大日本帝国が大東亜戦争を始めた目的の一つは、アジア植民地の開放にあったことはよく知られている。歴史にイフは野暮だが、もし大東亜戦争なかりせば、アジアの国々はもうしばらくの間、おそらく昭和50年代ぐらいまでは欧米の植民地であり続けたに違いない。そうすれば朝鮮戦争もベトナム戦争も起こらなかった。おそらく9.11テロもイラク、アフガン戦争も。今の世界はまったく違った姿だったに違いない。

 この年表を一読すると、昨今世界を悩ますトラブルの種が、すべて第二次世界大戦終了直後の数年間にばらまかれたことがよくわかる。やっかいな北朝鮮問題も台湾問題も、チベットもイラク、アフガンもパレスチナ、シリアもである。まさにパンドラの箱を開けたようなものだ。物事は万事塞翁が馬、植民地解放も善し悪しである。中でも最悪のトラブルの種は、昭和23年、すなわち1948年のイスラエル建国である。パレスチナ問題に始まるイスラム原理主義の無差別テロも、湾岸戦争もアラブ地域のぐちゃぐちゃも、いつ終わるとも知れない中近東地域の大混乱はすべてこれに端を発している。これはほとんど100%、イギリスが蒔いた種である。当然の事ながら大日本帝国の責任はゼロである。それなのにイギリスは他人事のように知らんぷり。アメリカに押しつけて、平気な顔をしている。厚顔破廉恥の見本である。今だにねつ造慰安婦でオタオタしている日本には、逆立ちしても真似できない。

 興味深いのは、戦後1年もたった21年8月16日に、突如スターリンが連合国に対しソ連軍による北海道占領を公式提案していることだ。よく知られた話だが、終戦直後のこととばかり思っていた。もちろんただちにトルーマン大統領がはねつけたが、もしこれが終戦直後のどさくさ紛れだったら、案外無理押しが通っていたかも知れない。ソ連は20年8月15日までに樺太千島はおろか国後、択捉まで侵攻している。その勢いを駆って北海道まで入っていたら、今頃日本は分断され、少なくとも北海道は北朝鮮状態になっていただろう。マッカーサーがレイバンのサングラスを掛けて、コーンパイプをくわえながら厚木に到着し、GHQが開設されたのは、それから2週間もたった後の8月30日のことである。ソ連が勝手に樺太、千島、北方領土の領有を宣言したのは翌年の21年2月20日のこと。まさに泥棒猫である。今のクリミアと同じだ。

 中国関係を見ると、終戦9ヶ月後の21年5月1日に、蒋介石の国府軍が重慶から南京に遷都している。同じ頃、ソ連が満州から撤退している。その3年後の24年9月21日に、北京で毛沢東が中華人民共和国成立を宣言している。その3ヶ月後の24年12月1日に、蒋介石の国民党が台湾に追いやられている。それまでの4年間、毛沢東と蒋介石は熾烈な内戦を続けていた。同じ国民同士がまったく妥協せず、4年間も凄まじい殺し合いをやったわけだ。とても穏和な日本人には真似できない。この内戦では千万人以上中国人が命を落としている。中国人は認めようとしないが、日中戦争の戦死数をはるかに上回っている。

 蒋介石が中華民国の首都を北京から台北に移し、国府軍が完全に台湾へ撤退するのは、それぞれ24年12月、25年5月のことである。蒋介石を台湾に押しやった後、毛沢東の人民解放軍ははただちに朝鮮戦争に介入し、チベット侵攻を開始した。25年6月と12月のことである。実に好戦的な民族である。日本軍が撤退した後、4年間も続いた内戦と、その10数年後に起きた文化大革命の大混乱は、中国を大いに疲弊させた。規模的には日中戦争をはるかに上回る災厄ある。南京攻略で日本軍が30万人殺したと言うが、事の真偽はさておいて、彼らの内戦はとてもそんなスケールではなかった。国民党軍と人民解放軍による内戦の死者数は1000万人を超え、チベットでは200万人以上殺戮し、文化大革命では数千万人が命を落としたと言うのが定説になっている。もちろん数字はどれも風説である。中国には人口統計もきちんとした戸籍制度もないから、確たる証拠はない。それを言うなら南京の30万も同じことだ。日中戦争の戦争責任は9割方日本側にあったが、それ以降に中国人民の被った災厄はすべて彼ら自身の責任である。いち早く独立してソ連に接近し、中国と距離を置いたモンゴルは、その災厄を被らずにすんだ。運が良かったと言わざるを得ない。

 もう一つ勘違いしていたのはドイツのことである。なんとドイツ連邦共和国、すなわち西独臨時政府が樹立されたのは24年の6月のことで、実際に国家として正式発足したのはその1年も後の24年9月である。さらに東独、すなわちドイツ民主主義共和国成立はその一ヶ月後である。それまでの戦後の4年間、ドイツという国は西も東も地球上に存在しなかったということになる。昭和26年9月にサンフランシスコ対日講和条約に調印する前も、した後も、日本はドイツと同じように占領軍、すなわちGHQの支配下にあった。しかし我々は「主権国家日本国」がその間もずっと存在し続けたと思っている。この認識の違いは何なのだろう。日本人の途方もない錯覚だろうか。

 GHQが無くなったのは朝鮮戦争より遙か後の昭和27年4月である。自分はちょうど中学1年生だった。それまで日本には国家主権などなかったのだ。憲法ですらGHQから与えられたのだ。そう言うことを学校の先生は何一つ教えてくれなかった。日本人が後生大事にしている現在の平和憲法も、まったく国家主権のない昭和21年11月3日に、GHQに与えられて公布されたものだ。年表によれば公布日は“5月3日”ではなく11月である。どうして5月3日が憲法記念日なのか不思議である。戦後のドイツは国家主権を回復した後、60回も憲法を書き換えている。日本は60年間一度もしていない。戦前戦後を通じ、だらだらと日本国を続けてきた日本人は、“国家主権”の意味が分かってないのだ。

 それにしてもおかしいのは、この「通産省年表」の記述が昭和20年8月15日から始まっていることである。年表によれば「通産省」が発足したのは24年5月である。それまでは「商工省」のはずだ。商工省は戦前からこの24年までずっと存在し続けていて、一度たりとも途中消滅したことはない。方や日本帝国陸海軍の大本営はGHQ開設直後の20年9月13日に廃止されているし、海軍省や陸軍省も同じ20年12月1日に廃止されている。それなのに商工省はずっと続いていたのだ。理屈を言えば、24年までは“商工省年表”でなければならないはずだ。事実、年表の中の省名記述はそうなっている。そうだとすると、昭和20年8月15日以前の記録が、消しゴムで消したようにすっぱり切り落とされているのはまったくおかしな話である。GHQの占領下ではそう言う記述が無理だったととしても、この年表が作られた昭和54年なら何ら問題ないはずである。戦前の商工省は、安部首相の祖父岸信介など、当時の若手官僚が軍部と組んで、日中戦争の発端になった満州国樹立や、その後の戦時国策に大いに関与した。戦後の経済官僚にとって、あまり愉快な記憶ではなかったのかも知れない。しかしそれを一切記録に残さず、公式資料から抹殺してしまうと言う神経は理解できない。日本人はこうやって自らの歴史を歪めてきたのだろうか。

 年寄りの愚痴です。

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