伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年1月18日日: 俳優・蟹江敬三の死去に思う GP生

 俳優、蟹江敬三の訃報に接した。胃癌による死だと言う。享年69歳、早過ぎ る人生の終焉だ。本来、彼は舞台俳優だが、テレビドラマの脇役として存在感を 発揮していた。自分が蟹江敬三を意識したのは、テレビドラマ「鬼平犯科帳」だ。 火付盗賊改メ方長官たる長谷川平蔵を演じた役者は、松本幸四郎、中村錦之介、 丹波哲郎等が居る。極めつけは中村吉右衛門だ。自分は、原作者・池波正太郎の イメージする長谷川平蔵に最も近い役者が吉右衛門だと思っている。彼の鬼平犯 科帳は全120篇を超え、これに何遍ものスペシャル版が加わる。自分はWOW OWでの放映全編をHDに録画し、時々、見直して池波正太郎の世界を楽しんで いる。蟹江敬三は「小房の粂八」役で、平蔵を支える密偵として重要な役割を担っ ている。京都映画株式会社の時代考証と職人技が生えるセットの素晴らしさも、 鬼平犯科帳の魅力の一つだ。

 蟹江敬三が鬼平犯科帳に初めて登場したのは、第1シリーズ・第4話「血頭の 丹兵衛」だ。物語は、火付盗賊改メ方に捉えられた粂八が、彼が知るお頭・血頭 の丹兵衛とあまりにも違う畜生働きの話を聞き、真偽を確かめるべく、平蔵の捜 査に協力する所から始まる。粂八の知っているお頭は、「女を侵さず、人を殺さ ず、貧しきからは奪わず」の掟を守った正統派盗人であった。15年前に掟を破 り、お頭から破門された粂八は、以来、掟を守って生きてきた。しかし、歳月が 丹兵衛を悪逆非道の盗人に変えた。蟹江敬三の粂八は、信じてきたお頭に裏切ら れた苦悩を真迫の演技で見せてくれる。

 第4話には二つの名場面がある。一つは、牢越しに平蔵と粂八が酒を呑む場 面だ。平蔵から生まれを問われた粂八は、「親の顔も名前も知らず、おん婆と呼 ばれた祖母と飢えと寒さに悩まされながら、雪の中を彷徨い、覚えているのはお ん婆の温もりだけだ」と話すと、平蔵は「俺も母の顔を知らない、祖母の温もり も知らないのさ」と言いつつ、立ち去る場面だ。妾腹の平蔵は本所の別宅で乳母 に育てられ、母親を知らない。 二つ目は、物語の最後で、島田正吾演じる引退した大盗賊・蓑の火の喜之助が、 峠の茶屋で平蔵と粂八に出合う場面だ。坦々たる台詞の中に、名優三人の息遣い が聞こえて来る様だ。何回見ても、三人の俳優達の演技を超えた人間味が心に沁 みる。島田正吾も既に鬼籍だ。茶屋を立ち去る時の彼の笑い顔が忘れられない。 吉祥寺の前進座は既に取り壊され駐車場になっている。世は人と共に変わってい くのだろうか。

 蟹江敬三は1月頃から体調を崩して、入退院を繰り返していたと報じられてい る。詳細は分からない。胃癌の初期では、自覚症状が無く、進行しても検査をし ない限り分からないそうだ。死に至る末期癌であれば、もっと早くから、自覚が 有ったと思うのだが。この辺の事情も分からない。

 先日、友人のHa君から電話を貰った。小学校のクラス会の案内に対する欠席 の電話であった。彼は、2年前に脳内出血で突然倒れた。命は取り留めたものの、 一年以上、入院生活を余儀なくされた。身体のみならず言語障害を起こし、懸命 にリハビリに励んだ結果、杖突歩行と電話を掛けられるまでに回復した。彼は、 体育大学で器械体操を選択し、卒業後は母校の高校で、体育の教師を定年まで勤 めた。60歳を過ぎても筋肉隆々たる体躯でクラス会に出席した姿を思い出す。

 「君みたいな男が、如何して脳溢血など起こしたか」と聞くと、塩分と糖質過 多の食生活を続けた結果だと言っていた。外見の健康さとは裏腹に、体内が静か に蝕まれていたのだろう。脳卒中と心筋梗塞は突然発症する高齢者キラーだ。 いずれも予兆はあっても、健康に過信があれば軽視されがちだ。

 以前の日誌に、70歳の坂について書いたことがある。自分の友人達を見ても、 この前後で大病をしている者は多い。斯くいう自分も、70歳を過ぎて前立腺癌 により長期の治療を余儀なくされた。男は中年以降、仕事や家庭でのストレスに 曝される。身体はもう若くはない。此の頃の栄養条件が老後の運命の分かれ目か も知れない。親から遺伝したDNAの優劣の影響も少なくない。

 人は誰しも遺伝的な身体上の弱点を有している。自分は咽喉が弱い。サラリー マン時代、過労が重なると声がかすれた。30代半ばに扁桃周囲膿症で入院し手 術をしたこともある。人の遺伝上の弱点のカバーは容易ではない。加齢の進行に 従って、弱点が明確になることも有る。そターニングポイントが60歳前後だと 思っている。

 60歳を過ぎて、立ち止まり、自らの生活を見直せれば良いが、病気もせず健 康で、自由に活動できる内は中々難しい。サラリーマンであれば定年と同時に生 活環境が一変する。曲折はあっても、現役時代と違った生活に落ち着くものだ。 俳優業やタレント業に従事する者は立ち止まれない。売れっ子となれば無理をし がちだろう。80歳を過ぎても現役を続けた宇津井健や、89歳まで放浪記を演 じ続けた森光子は、自らの生活をコントロールする術に長けていたのだろう。

 最近のテレビは健康・病気がテーマになっている番組が多い。パネラーとして 壇上を飾るタレント達の話を聞いていると、彼等の食生活が気になる。心ある者 はそれなりに食生活をコントロールしている様だが、その他大勢は何も考えず、 成り行き任せだ。蟹江敬三の食生活については全く知見がない。最近のドラマで、 TV画面にアップされる彼の顔を見ると、年齢以上の老いを感じるのは気のせい だろうか。

 人の老いは、顔に如実に現れる。人の食道から大腸までの消化器官の内側は外 皮だ。従って、顔の状態が各消化器官の内膜の状態を現わすと考えて良い。 顔に皺やシミが多いことは老化の現れだ。ならば、消化器官も同様に老化してい ると考えたほうが良い。顔は直接紫外線や放射線に日常的にさらされているだけ に、身体の持つ防御能力の優劣が現れる。消化器官は直接紫外線等が当たるわけ ではない。その代り、食物中に含まれる有害な化学物質や過剰な脂質、糖質等の 負荷に曝されている。アルコールやタバコも有害物として作用する。60歳を過 ぎれば、代謝能力は若い時のそれではない。発癌に対処する免疫機能も急激に低 下する。高齢者の栄養摂取は工夫が必要なのだ。

 蟹江敬三も胃癌の発見が早ければ、豊かな老後があっただろうに。これとて 「たら、れば」の話しで、彼にとっては避けられない運命であったのかもしれな い。人の運命を結果論で語ることは容易でも、行く末を予見する事は難しい。健 康管理は人それぞれだ。自分が正しいと思うことを信じて実行するしかない。彼 はどの様に考えていたのだろうか。

 梶芽衣子演じる「おまさ」と江戸や猫八演じる「相模の彦十」は、長谷川平蔵 が本所界隈で、無頼な生活を送っていた若き日の仲間だ。平蔵は二人に特別な思 い入れがある。この二人と「粂八」の三人は、密偵達の中でも、特に強い絆で結 ばれている。絆の結び目に居るのは長谷川平蔵だ。悪人には鋭く険しい眼光で迫 り、弱者には、とろける様な優しい眼で包む粂八も、平蔵の前では敬愛に満ちた 眼差しとなる。信じていたお頭に裏切られたと知った粂八が、血頭の丹兵衛に迫 る時の目は、狂気に満ちていた。蟹江敬三が見せる目の演技は、鬼平犯科帳の魅 力の一つでもあった。その彼も、あの世に還ってしまった。

 飄飄とした味わいを見せてくれた「相模の彦十」こと、江戸や猫八も鬼籍の人 だ。一世を風靡した名優達も、老いが進み、あるいはこの世を去っも、録画の中 の彼らは、若く溌剌としている。同世代の役者たちがこの世を去り、なじみの薄 い若い顔を見る事が多くなった。どの世界でも新陳代謝はつきものだ。それでも、 好きな時に、顔なじみを見る事が出来るのは嬉しいことだ。自分が彼らの後を追 うのも、遠い先ではない。

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