伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年3月28日: 憎しみがもたらすもの GP生

 「女の怖さをアイツに見せてやりたい。その人の家庭を壊してやりたい」と言う書き出しで始まる新聞記事、「抑制利かぬ復讐サイト」を読んだ。恐らく不倫による感情のもつれが原因であろう。記事によれば、ネット上で「復讐サイト」と呼ばれる闇サイトには、こうした投稿が次々とされていると言う。復讐サイトを利用した交換殺人事件は、映画やテレビドラマの中の出来事ではなく、現実の事になりつつある感がある。ネットのニュースに、短絡的な殺人未遂記事があった。「20歳の元交際相手の男性にネットで悪口を書かれたことに腹を立てた20歳の女性が、現彼と一緒に元彼を海に突き落とし、石を投げて殺そうとした」とあった。共に短大生だ。

 以前は、受けた理不尽に対して、耐え忍び、乗り越えることをテーマにしたドラマもあった。「おしん」がその典型だ。現在は、刑事物や裁判物のテレビドラマに、犯罪被害者の憎しみを主題にした物も多い。時代の変化につれて犯罪も短絡的になった。日本人の心が荒んできたのだろうか。

 少女期に父親が妾を作り家に寄り付かず、母子家庭で育った女性がいる。彼女が高校生時代、毎月、生活費を受け取りに妾の家に通う屈辱を味わった。父親が死んで、自分が歳を取っても、未だ父親に対する憎しみが消えない。結婚して、夫の両親と同居した女性が、姑から何年にもわたって、陰湿ないじめを受け続けたら、姑に対する憎しみは生涯消えない事が多い。姑に対する憎しみは、その子供たる自分の夫に、容易に転化する。怨む相手がこの世にいなければ、その肉親に憎しみを向けるしかないからだ。

 人が長い間、この世で生きれば、楽しい事ばかりではない。辛い事の方が遥かに多い。高齢者にとって、幸せな想い出は、辛い事、哀しい事の連続の中で、何時しか記憶の彼方に薄れてしまう。憎しみが、消えることなく、時間をかけて増幅されることもある。犯罪被害者の様に、元に戻ることが叶わない被害を一方的に受けたとすれば、加 害者に対する憎しみをコントロールする事は難しい問題だ。同じ状況に身を置いても、憎しみの強さは人それぞれだ。幼少期から、不幸な家庭環境で成長しも、全てが自らの環境を呪い、怨むわけではない。その違いは、何処にあるのだろうか。

 人は憎しみの心を持って、この世に誕生した訳ではない。人は、この世で何をすべきかを魂の仲間達と約束して、あの世から旅立つと聞いている。誕生した魂が成長しても、あの世での誓いを思い出すことはない。潜在意識に閉じ込められた、過去世の記憶や誕生前の誓いを容易に自覚出来れば、この世での修行に成らないからだ。自分を含めほとんどの人は、誕生前に抱いた、人生目標を生涯知ることはないだろう。

 明らかなのは、あの世での約束に「憎む事」はあり得ない事だ。善なる意識の持ち主でなければ、誕生が叶わないからだ。けれど、人の潜在意識に沈んだ記憶は善なるものだけではない。過去世において犯した過ちや、理不尽な想いは潜在意識に刻まれている。人は理不尽な思いに駆られた時、過去世での憎しみの記憶が、引き出されるのかもしれない。人はそれぞれ、潜在意識の内容と想いの深さは異なるだろう。これが、同じ状況に置かれた時に、人の反応が異なる理由なのかもしれない。過去世で憎しみを克服した記憶が多ければ、現世で受けた理不尽に対して、短絡的に憎しみを現わす事は少ないと思う。

 先の女性の様に、小さい時からの記憶が薄れることがなく、その後、幾つもの憎しみを積み重ねたとすれば、心の奥には悪念が渦巻き、一寸した切っ掛けで意識に昇る事になろう。重い心を軽減すべき術が分からなければ、心の負担は増すばかりだ。心は暗くなり、歪になり、神経は刺々しくなる。この心の歪みは、医学的には原因不明の心身症を引き起こすことになる。

 釈迦は「慈悲は救いだ」と説いた。他を幾ら憎んでも、自らの心は救われないからだ。犯罪被害者のインタビューで「犯人に何を望むか」との問いかけに、10人が10人、「極刑を望む」と答えている。此の加害者が刑場の露と消えたら、被害者の心は満たされるだろうか。加害者は自らの体で、この世での過ちを償ったとしても、それが被害者の心を癒す事にならない。加害者が犯した過ちを悔いる心が、被害者に伝わり受け入れられない限り、被害者の心の救いの一歩にならないからだ。憎しみの心に救いは無い。

 釈迦の慈悲とは、加害者に自らの過ちを悔い改める心があれば、被害者が、その心を許すことで、被害者だけでなく加害者も救われるとの教えだ。現在の厳しい世に生きる自分達にとって、「釈迦の慈悲」は理解は出来ても、いざその時にに成ったら如何だろうか。しかし、憎しみに対する救いが、「釈迦の慈悲」しかないとすれば、葛藤は続く。

 家族を苦しめた父親も嫁をいじめた姑も、彼等の行為の原因が、自己中心的な欲望や、浅薄なエゴ、嫉妬であったりする。彼等が己の立場を認識し、欲望を抑制し、自らを律することが出来れば、家族に不幸は生じない。それが出来ないのが、人の弱さ、未熟さなのかもしれない。彼等に憎しみを抱く娘なり、嫁が「彼等は人として未熟なのだ」と受け止められれば、憎しみを克服する一歩になるのだが、不可能だろう。彼等がこの世を去った後、彼女達の心が成長すれば、憐れみを以て許すことが出来るかもしれない。ならば、彼女達にとっては救いになるだが。

 先の女性に憎しみを植え付けた父親は、若くして交通事故にあい、長く苦しい闘病の末、亡くなった。入院中の面倒を見、最期を看取ったのは本妻だった。嫁を陰湿にいじめた姑も、認知症を患い、この世を去っている。彼等は、生前に、報いを受けたのかもしれない。因果応報、作用反作用は、この世の法則だと言われている。この世で生ある内に、苦しめた相手に、心から詫びる気持ちが伝わらない限り、誰も救われない不幸な結果となる。加害者は勿論の事、被害者が憎しみを持ってこの世を去れば、あの世の行く先を思うと哀れだ。死しても苦しみが続くからだ。

 憎しみは個人間だけではなく、国家間にも存在する。半島の国家では大統領が反日を国是としている。三国首脳会談でも、韓国語で挨拶する安倍首相に対し、返礼すらせず顔を背け、無視する非礼を行った。国民に妥協しない姿勢を見せたつもりだろう。まるで子供だ。テレビ画面に映し出された映像は、異様な雰囲気を伝えている。同じ女性でも、イギリスの首相サッチャーが、宿敵ゴルバチョフに対して示した、政治家としての力量と比べるべくもない。かの国では、「無視」は相手に対する最大の侮辱だそうだ。国内にしか通用しないパフォーマンスを全世界に発信した。一国の大統領として、余りにも未熟としか言いようがない。自ら蒔いた憎しみにより、自縄呪縛に陥っている姿は哀れだ。

 憎しみは理性を曇らせる。国家の指導者が理性を失ったら、国は衰退する。かの国の人達が、国の本当の歴史を知ったとしたら、発狂に近い混乱に陥るだろう。永年信じてきた事が、虚構であったと知れば当然のことかもしれない。これは、我が国に留学し、帰化した呉善花氏の著書を読めば想像がつく。「ドラえもん」や「鉄腕アトム」・「マジンガーZ」が自国オリジナルでない事を知った国民の驚きを見れば分かる。国民に対して他国への憎しみを煽る国家に未来はない。国家と言えども、無機質の存在ではない。生きとし生きる人により成り立っている。「憎しみから何物も生まれない」のは、国家においても個人と同様だ。国民を不幸にするだけ指導者の罪は重い。

 中高6年間通った学校で、週二回、全校生徒で唱和した「心力歌」に、次の一節がある。「得るに喜び 失うに泣き、勝ちて驕り敗れて怨む。喜びも煩いを生み、泣くもまた煩いを生む。驕れば人と難を構え、怨むも世と難を成す」だ。先の記事にあるような恨みや、憎しみの原因は当事者双方にあるものだ。己の責任をさて置いて、相手に憎しみをぶつける事は、苦しみを増幅するだけだ。憎しみで投げた小石が相手に当たり、死亡したとすれば、何倍もの苦悩に苛まれるのは、投げた当人だ。怨む心、憎む心を持ち続ける事が、人をどれだけ不幸にする事か。「苦しみを抱くも我が心、それを救うも我が心」とは「心力歌」の教えだ。

 魂があの世とこの世を輪廻することを知る意味は大きい。あの世の存在も、輪廻転生も、現代の科学では証明できない。科学的に証明できないから、存在はしないと考えれば、死への恐怖は強まるだろう。この世に執着した魂の行く先は、言うまでもない。この世での死が、あの世での誕生であることを知れば、この世で受けた憎しみに対する思いも、違ったものになるだろう。憎しみは、心の毒であることは確かだ。毒はこの世にあるうちに、解毒することが必要だ。

 釈迦の思想を凝縮した般若心経の有名な一節に、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」がある。この解釈は「この世とあの世は異ならず あの世とこの世は異ならず この世、即ちあの世 あの世、即ちこの世」だ。即ち、この世とあの世は一体だと説いている。高齢者が、あの世の実存を信じられれば、死への恐怖が薄らぐことに繋がる。過去の憎しみの清算も容易になろう。心の重荷を軽くできれば、限られた生に対して、意欲を持って臨むことも可能になると信じたい。

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