伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年3月15日: プールサイドの女神 GP生

 自分が通っているジムのプールは、建物最上階の4階にある。プールには縦  25m、幅2mのコースが4レーンあり、深さは1.1〜1.2mで、小柄な女 性でも、安心して楽しむことが出来る。プールの横に半円形のマッサージプール が附属していて、別途、ジャグジーとスチームサウナ設備がある。 プールサイドの一角にストレッチエリアがあり、自分が「プールサイドの女神」 と仇名した、60代後半の女性Taさんの常駐エリアでもある。

 彼女は水着を着ていても、プールに入ることはない。毎回、専用マット上で30 分ほどストレッチを行い、次いでリラックス用のベンチ脇で仕上げを行う。スト レッチは彼女考案の独自のものだ。最後に、サウナに入り終了となる。自分が水 中歩行時に、Taさんを見上げると輝いて見える時がある。霊感の全くない自分 が見ても、全身からオーラが発している錯覚に囚われる事がある。彼女が存在し ているだけで、プールが明るくなるようにも思える。彼女と話すきっかけを作っ た、友人のKo君に話したら、其のようには見えないと言われた。

 彼女と短い会話を交わす様になって、数年が過ぎた。時が経過しても、彼女は 周囲に明るさを振りまく「プールサイドの女神」であった。彼女は長身でスタイ ルの良い女性だが、決して美形ではない。話す声が若く、明るい。女学生の声に 近い。笑うと目が無くなってしまう。彼女を見かけると、自分は「おはようござ います」と声をかけ、5,6分立ち話をするのが常であった。水中歩行中に彼女の 方から、声をかけられる事もしばしばだ。話の内容は、他愛もない世間話が殆ん どだ。彼女は、「主人から、お前は馬鹿だと、何時も言われる。主人は何でも知っ ている人だけど、私は何も知らないから、バカと言われても仕方がない」と、明 るく笑い飛ばしている。人柄の良さは、天性のものだろう。北陸の由緒ある旧家 の出と聞いている。

 何年も同じ時間帯にプールを歩いていると、顔なじみが出来るものだ。後ろ歩 きで接触したり、水が掛かったり等の一寸した切っ掛けで、挨拶を交わすように なる。同年代の男女か、自分より高齢の女性も多い。若い女性は一人として居な い。女性と話す時の心得は、聞き役に徹することだ。彼女達は饒舌だ。立ち入っ たプライベートの問いかけは禁物だ。話の内容から、独居に近い女性が多いよう に思える。彼女達にとって、見知ったプール仲間に話を聞いてもらう事が、憩い のひと時になるようだ。色々な女性と話しても、Taさんと話した時の様に、心 温まり、豊かな想いに満ちる経験はない。Taさんは、特別の存在に思える。プー ルサイドの女神たる所以だ。

 今年に入って、自分は前立腺癌の治療の為の入院した。退院しても感染症予防 のため、医者から風呂やプールは厳禁されていた。1ヶ月近くの休みを経て、プー ルに戻った時、Taさんの姿を見る事は無かった。不審に思って、情報通の女性 に聞いてみると、1月にジムの更衣室で倒れ、救急搬送されたと言う。病名は脳 梗塞。ICUに暫く居て、一般病棟に移ったものの意識が戻っていないと聞いた。 毎日、プールサイドで1時間近く元気にストレッチをしていた彼女が、脳梗塞と は。Taさんと病気や健康の話をした記憶がないのは、彼女が身体の不調とは全 く無関係との思いが強かったのかもしれない。

 彼女の動きは、何時も敏捷で優雅だ。彼女がマットレス上で仰向けになり、両 手、両足をバタバタしている姿は、ひっくり返ったゴキブリにそっくりだ。「ゴ キブリ体操ですね」と声をかけると、「ゴキブリそっくりね」と屈託のない笑い 声で応えたものだ。あの姿を見る事は叶わなくなった。命は取り留めても、プー ルへの復帰は無理だろう。プールサイドの女神が消えた。

 人は加齢を重ねるにつれ、身体の不調や病に襲われることが多くなる。身体が 本来備わっている防御能力が衰えて来るからだ。人生50年の時代では、早い段階 で寿命が尽きてしまうから、生活習慣病に縁は無かった。栄養条件が改善される ことで、日本人の寿命は著しく伸びると、今度は、中年以降の食生活を中心とす る生活習慣が、老齢期を迎える人々に大きな影響を与える事になった。

 自分は、人には70歳前後に、人生が左右される大きな坂が在ると思っている。 特に、60歳近くまで、心身をすり減らし働いてきた男達にとっては、厳しい坂の 様だ。この坂であえいでいる知人、友人も多い。自分も、予期しない前立腺癌に 見舞われた。女性にはこの坂を経験しない人が多い。子供を産み育てる特権で、 本来有する生命力が男とは根本から違うのだろう。

 病から最も遠くにいたと思われたTaさんは、何故、脳梗塞で倒れたのだろう か。日本では約140万人の脳梗塞患者がおり、年間8万人が死亡するそうだ。3大 死因の一でもある。脳梗塞の原因は大きく二つあると言われている。一つは脳血 管の動脈硬化だ。戦前は米食主体による栄養の偏りにより、血管が脆くなり破れ る脳溢血が圧倒的に多かった。自分の祖父も昭和21年に、これにより死亡して いる。現在では、食生活の欧米化による栄養の偏りが、動脈硬化を引き起こす。 高血圧、高脂血症、糖尿病、酒、タバコが後押しをする。

 もう一つの原因に心臓の不整脈がある。不整脈の一つである心房細動があると、 心臓のリズムが乱れ、心臓血管に血栓が出来易くなる。この血栓が血流により脳 血管を詰まらせてしまうことで、脳梗塞を引き起こす。近隣の80歳の女性は家 で倒れ、発見が早かったために、血栓を溶かす処置が奏功した。

 Taさんの身体状態も食生活も判らない。原因の推測も出来ない。中年以降の 食生活に何か手抜かりがあったのだろうか。筋肉質でスリムな体型と日常の会話 から、彼女が高脂血症、糖尿病や高血圧と縁が無かったことは確かだ。

 70歳前後になると、それまでの生きざまが問われることになる。両親から貰っ たDNAも影響してくる。近隣の60代半ばの男性は、最近、橋本病の治療の為、 入院した。橋本病は自己免疫が甲状腺を攻撃して炎症を起こし、甲状腺機能が低 下する難病だ。その上、肺気腫を併発している。中年以降、極端な偏食の上、ヘ ビースモーカーでもある。現在、体重は40kgに満たない。自ら、生命を削り 取っている。

 Taさんが橋本病の男性の如く、自分の健康や食生活に無頓着であったとは思え ない。長年の生活習慣の中の何が、彼女に病を発症させたのだろうか。自覚出来 れば、対処の方法は幾らでもある。無自覚であったり、関心が無ければ、突然、 最悪の事態を招く結果になる。一病息災とは良く言ったものだ。医者や薬に縁が なく、健康そのものと自信を持っている人間が突然病に見舞われる。自分も十数 年食生活に留意してきたが、それでも昨年、前立腺癌が見つかった。「何で、あ なたが」と言われても、説明のしようがない。これが、70歳の坂の現実だ。

 先日、風の便りで、Taさんがリハビリ病棟に移ったと聞いた。意識が無けれ ば移ることは在りえない。意識が回復したことを心から喜んだ。リハビリに励む ことで、脳神経のバイパスが出来る可能性はある。人体は驚く様な修復機能と能 力を秘めている。何時も前向きだった、Taさんの生きる意欲と努力が、機能回 復の扉を開くと信じている。プールサイドの女神たるTaさんと、話が出来る機 会が訪れる事を願って止まない。

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