伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年1月20日: 第150回芥川賞作品「穴」を読む。 T.G.

 今年度芥川賞作品「穴」(小山田浩子作)を読む。数えて150回目の芥川賞だという。文藝春秋も選者も気合いが入っているようだ。

 それにしても不思議な小説である。冒頭の前段6ページと主題である後段がまったく違う。別の作品かと思えるぐらい違う。作者は意識して違えているのだろうか。書き始めの前段6ページは、後段の物語の状況設定に長々と費やされる。主人公である共働きの妻が、仕事をやめ、夫の田舎の実家近くに移り住む経緯である。文体がいかにも軽い。と言うか下手くそである。軽薄で知性に欠けた冗長な会話文で綴られている。夫である人物が「それもそうか」と言うところを「それもそっか」などという。「何というか…」と言うところを「何つうか…」などと言う。純文学の会話体ではあまり見かけない。作者の身の回りにそう言う語り口の人がいて、それを意図的に模写しているのかと思いながら読むと、会社の同僚の、別の女性が同じ話し方をする。どうやら作者の話し言葉の癖のようだ。これが癖だとすると小説書きとしてはいささか問題である。書かれている内容も、どこにでも転がっているありきたりの日常がグダグダと述べられているだけで、これが芥川賞かと読む気が失せて、途中で放り出したい気分になる。

 ところが後段の物語の本題に差し掛かると印象が一変する。主人公が始めた慣れない田舎生活の中で、次々に現れる日常とも非日常ともつかない出来事が、物語の展開に緊迫感を与え、つい話に引き込まれる。放り出さなくてよかったと胸を撫で下ろす。文章も前段から一転して、会話体の少ない引き締まった文体で綴られる。前段の放り出したくなるような下手くそさ、冗長さが消えている。とても同じ作者が書いたものとは思えない。少なくとも作者は、前段の6ページを書いた後、しばらく時間をおいてまったく違った精神状態で後段を書いたのではないだろうか。そうとしか思えないほどの違い方である。

 不思議さは本題の物語でも発揮される。ごくありきたりな日常生活の中に、非日常というか非現実が次々に登場する。真面目な純文学と思って読んでいるので、最初のうちはその非日常、非現実に気付かない。まか不思議なホラー小説を読んでいるような緊迫感がある。サスペンスものを読んでいるときのように、その先の話の展開に引きつけられながら読み進める。話が終わりかける頃になって、どうやらこれは主人公の妄想というか、幻想というか、単なる心象風景なのだと気付かされる。日常の現実生活と非現実が境目なく綴られるので、途中までそうと気付かない。

 主人公の心象風景(と思われる)の中に登場する非日常、非現実は、夫の兄と自称する引きこもり男、得体の知れぬ毛むくじゃらの黒い動物、夏休みの大勢の騒がしい子供達などである。この非現実は主人公だけに見えて、どうやら他の人間には見えていない。まるで宮崎駿の「となりのトトロ」の世界である。トトロと違い、非現実である夫の兄と主人公の会話は冗長さがなく、大人の文章で、何とも言えぬ緊張感と寓意があるように感じられる。前段の冗長さが嘘のようだ。誰とも顔を合わさず、母屋から離れた掘っ立て小屋に住むというこの引きこもりの義兄と主人公との会話は、いかにも意味ありげで、どんな寓意が隠されているのだろうと想像しながら読み進めるが、物語の最後まで、とうとうそれは顕れない。単なる妄想話で終わる。そこがこの作品の最大の欠点であるのだが。

 それにしてもこのような怪奇小説ともつかぬ、ファンタジーともつかない小説が純文学といえるのだろうか。似たような話の「不思議な国のアリス」は、子供向けのファンタジーである。ウサギを追って穴に落ちた女の子が見る不思議や怪奇に特別な寓意はない。子供のお化けを追って穴に落ちた女の子が出会ったお化けのトトロは、子供向けファンタジーである。主人公の妻が毛むくじゃらの動物を追って穴に落ちる非現実の発想は、おそらくこの2作品にヒントを得たのだろう。そうとしか思えないほどそっくりである。穴に落ちた主人公が出られずに藻掻いていると、穴の底にいた毛むくじゃら動物に鼻で押し上げて助けられる場面など、ほとんどトトロのパクリ(盗用というと失礼なので)である。まともな純文学と思って読んでいるとずっこける。

 純文学にも非現実や怪奇を題材にした作品はある。芥川自身もいろいろ書いている。「鼻」や「蜘蛛の糸」や「杜子春」がそうだ。「鼻」は昔物語の寓話である。「蜘蛛の糸」は宗教的な題材をもとにした寓話である。「杜子春」もそうだ。怪奇や幻想は書いているが、妄想ではない。ファンタジーでもない。現実と非現実を峻別している。現実と非現実をこの作品のようにごちゃ混ぜにはしていない。だから読者は混乱しない。読者もそれと分かって読む。この作品の中程での密度の高い緊張感は、現実と非現実をごちゃ混ぜにした効果が生んでいる。まやかしとは言わぬまでも、一緒のトリックである。最初から主人公の幻想だと分かって読んだら実につまらない。推理小説と同じで、二度読み返したら面白くも何ともない。二度読み返す価値がない小説が、はたして純文学といえるだろうか。文学作品として非現実を書いては駄目とは思わないが、現実と非現実を区別しない書き方は、直木賞ならいざ知らず、純文学としては一種のルール違反ではないか。少なくとも自分は今までに読んだ記憶がない。

 それもあってか、選者の選評もいまいち迫力を欠く。その中で高樹のぶ子氏が次のように言っている。「「穴」の作者には才能がある。…日常との境目を消し、読者を非日常の穴に連れ込む滑らかさは並々ならぬ力の証しだ。しかしそれでもじくじくと不可解な出来事が続き、思わせぶりな感じが残ってしまった。もう少し突き詰めるか、妖しく爆発して欲しかった。不可解な出来事の入り口で引き返さなければ、そこからさらに怖い世界が始まったのではないか」と。同感である。毎回作品を読んだ後、必ず「選評」に目を通すが、選者のうち、この高樹氏の評がいつも手応えがある。作品の批評の前に必ず彼女の文学に対する考え方、姿勢が述べられていて、それが面白い。2008年の芥川賞作品「乳と卵」の選評で、「自分の絶対文学と候補作の距離を許容する苦痛に対して選考料が支払われるものだと考えている」と芥川賞に対する痛烈な皮肉を書いていたのが記憶に残っている。この作品も彼女の基準との距離があるということだろう。

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