伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年2月18日: 入院生活と日常への復帰 GP生

 前立腺癌の放射線治療による入院は、3泊4日の短期間ではあったが、そこで の体験は大変興味深いものであった。現役をリタイヤしてから、医者と薬に縁遠 かった自分にとって、病院内で経験すること全てが、目新しく新鮮に感じられた ことにある。

 自分がお世話になった病院は、正式名「東京慈恵会医科大学付属病院」だ。通 称、慈恵医大病院、または単に慈恵医大で通用する。昨年5月、激しい血尿に驚 き、近くの泌尿器科医院で診察を受けた。この医院の医師が慈恵医大の出身で、 「ここなら最新の治療を受けられる」として、紹介状を書いてくれたのが縁だ。 慈恵医大での治療が始まってから、既に半年以上が経過した。治療の内容には納 得しているし、病院スタッフの皆さんには大変感謝している。慈恵医大を紹介し てくれた開業医の先生のお蔭だ。

 長い人生の節々に、分岐点と思われる大事に遭遇することがある。進学、就職、 結婚はその最たるものだ。しかし、意図せざる大事は自らの意思ではなく、偶然 とも思われる事柄により、あたかもコンベアーに乗せられた如く流されることも 多い。この開業医には、以前、家人がお世話になった。この時、この病院を紹介 してくれたのが、長いお付き合いのあった薬剤師の女性だ。此の流れが異なって いたら、自分が慈恵医大で治療を受ける事は無かったし、HDRと呼ばれる高度の 放射線治療を受けることも出来なかったかもしれない。人知の及ばないところで、 目に見えない力が、人の運命を左右している様に思えてならない。

 1882年に,高木兼寛は有志共立東京病院を開設した。同時に、日本で最初 の看護婦教育所を併設した。昭憲皇太后より「慈恵」の名を賜り、東京慈恵病院 と改称してから、曲折を経て、現在の慈恵医大に至っている。高木兼寛は海軍軍 医時代に、当時の軍隊で大問題となっていた脚気を、白米中心の日本食が原因と 考え、海軍食の改善に取り組み洋食中心の食事に替えた。英国海軍では脚気患者 が出ず、日本海軍で発症するのは何故かが発想の原点だった。海軍は最終的に麦 飯に替える事で海軍から脚気を追放した。 一方、陸軍では森林太郎らが「脚気細菌説」を唱え、高木兼寛の栄養説を批判し た。結果、日露戦争で、陸軍では28000名近い兵士が脚気で死亡した。何時 の時代も、医者に必要なのは、患者を診る目と柔軟な発想の様だ。

 創始者、高木兼寛は、慈恵病院の理念を「病を診ずして 病人を診よ」、そし て「医者と看護婦は医療の両輪である」とした。この言葉は、高木兼寛の経歴と 共に、慈恵医大に掲げられている。自分は遥か以前に、首横に溜まった脂肪の切 除の為に、中規模の病院に入院したことがある。担当医は形成外科の名医と世に 喧伝された医師で、技量も人柄も尊敬に値する人であった。一週間の入院であっ たが、病院全体には、さしたる印象は残ってはいない。 慈恵医大に入院して、何かが違うと感じた。医師、看護師、介護士、事務職員の 多くが患者に対して優しいのだ。当然、病に苦しむ患者に対する職業的優しさは あるだろう。これは、何処の病院でも同じだ。しかし、優しさの質が違う感じが した。高木兼寛の理念と慈恵の心が生きているのだろう。

 何処の病院でも医師は勿論、看護師は白衣と決まっている。慈恵医大では、二 種類の看護師の衣服が存在する。ひとつは従来通りの白衣の看護師。他一つは、 黒地に小さなカラフルな模様の入った上着に各自好みのズボンを着衣する看護師 だ。看護師に「職務別の色分けですか」と聞くと、好みによる各自の選択だと答 えが返ってきた。ベットに寝たきりの自分を世話してくれた看護師達を想うと、 カラフル衣の女性達からは、優しさと暖かさを感じた。白衣の女性達は一般にクー ルな印象を受けたのは穿ちすぎだろうか。着衣の選択は心の選択でもあるのだろ うか。「患者が暖かさを感じられるように」との、病院の方針とも聞いた。

 前立腺に20本の中空針を刺し、局所麻酔で下半身が動かせない状態では、治 療の為の移動はストレッチャーとなる。入院病棟は慈恵医大最大の建物である中 央棟の21階で、治療は外来棟地下一階だ。中央棟から途中、E等を抜け、三階 の連絡通路から外来棟地下を往復する大遠征だ。普通に歩くと、病院の通路は全 くのフラットだが、ストレッチャーに身を委ねると違った世界が開けて来る。凹 凸が多いのだ。各棟との連結部、廊下と部屋の境界部、エレベータとのギャップ 等、通過時に身体にショックを受ける。二人の男性介護士も、「ガタンとします よ」などと注意を促してくれる。ストレッチャーの車輪のゴムも硬く弾力性が無 い。車輪は本体に固定でサスペンションに相当する物は無い。身体不調の患者の 運搬用としては、改良の余地があるのでないかと思いながら、身を任せた。

 初日の治療が終わった後、膀胱内に多量の出血が続き、発生した血栓が排尿管 を詰まらせてしまった。この時には、多くの医師、看護師、介護士が集まり、適 切な処置をしてくれた。患者本人は激痛の為に、呻きどうしてであったが、心配 して集まってくれたスタッフの人達に、心の中で感謝していた。

 但し、食事だけは戴けない。治療の全てが終わり、排尿管のみを残しての最初 の食事は夕食であった。流動食的な物を期待していたが、アジフライとエビフラ イに通常米のご飯だ。心身ともに消耗している身では、箸が付けられなかった。 仕方なく、家人が持ってきてくれた、黄粉入りヨーグルトと持参した配合タンパ クとビタミンを替りに食した。慈恵医大で唯一の不満は食事だった。

 退院してもすぐには日常生活への復帰は無理だ。会陰部から前立腺に刺した針 孔が治癒していないために、風呂は2週間の厳禁。感染症防止のためだ。プール などは論外だ。シャワーは可だが、此の冬空、浴びる気にはならない。元来、入 浴はカラスの行水の類だから苦にはならない。それよりも、排尿障害の苦しみは 尋常ではない。これは前回の日誌に書いた通りだ。椅子に座ると、会陰部に何と も言えない不快な圧迫感を受ける。帰宅後の3日間は殆んどベットで過ごした。 体力には自信はあっても、加齢には勝てない。二日間絶食で苦痛の為に眠れない 入院生活は、想像以上に消耗を強いられたようだ。

 少し日常を取り戻してきたのは、一週間が過ぎた頃だろうか。それでも頻尿と 切迫尿による排尿障害は、生活のリズムを取り戻す最大の障害であった。夜間、 幾らか眠れるようになったのは、10日を過ぎた頃からだ。確定申告の帳簿整理 をしなくてはいけないのは分かっていても、意欲は全くわかない。日常生活の役 割分担による雑用すら、意欲が湧かない。関心の殆んどが排尿に取られているた めだ。これら全ては、同居する息子の仕事になった。マンション管理の雑用は懇 意にしている業者に依頼をした。自分でないと対処できない突発的トラブルの発 生が無い事を祈るのみだった。

 二週間が過ぎ、頻尿と切迫尿は変わらないにしても、それなりの落ち着きが出 てきた。「腫れ上がった前立腺は、2週間で幾らか安定して来た」とは主治医の 診断だ。中断していた鍼治療も再開した。ジムにも2週間ぶりに訪れた。初日は、 プールには入らず、入浴だけで終わらせた。朝一番の風呂場には誰も居ない。慣 れ親しんだ大きな湯船に、一人身体を伸ばした時の解放感の素晴らしさは、言葉 に表せない程のものだ。

 二日目から、プールで水中歩行を楽しんだ。歩いていて水が重い。一歩足を前 に出すと、水の抵抗がズッシリと身体に掛かる。筋力が低下している為だ。この 日は20分ほどで切り上げた。何時もの時間帯なので、見知った顔の男女に何人 も出会う。その都度、「おはようございます」と挨拶を交わすが、この言葉がこ れほど新鮮な響きを持つとは思いもよらなかった。20日の時を経て、ようやく 日常が返って来た。非日常的出来事で、日常を奪われた時、人は日常の瑣事の大 切さを意識するのかもしれない。

 プールでは何人かの人から「治療はうまくいきましたか。体調はいかがですか」 と声を懸けられた。友人のKo君が話したようだ。プールで毎日の様に顔を合せて いると、暫く顔を見せない人の安否が気になるものだ。自分もそのように思われ ていた事は、何人もの人達との会話で察しが付いた。

 自分が「プールサイドの女神」と仇名した60代後半の女性が見えないので、 他の女性に「Taさんに何かあったのですか」と聞くと、先月半ばにジムで脳梗塞 を発症し救急搬送された。ICUから一般病棟に移ったが、まだ意識が戻らない」 と話してくれた。何時も、プールサイドでストレッチに精を出していた元気な女 性だった。彼女の存在は、プールサイドを明るくしていたものだ。自分は復帰出 来たが、もう、彼女と会うことも、話すことも叶わないだろう。老人にとって一 寸先は闇だ。けれど、毎日1000mを泳ぐ、88歳の元日銀マンは、いつでも 明日があると感じさせてくれる。彼と話すと元気が出てくるのも事実だ。彼から は、退院後の生活を励まされた。

 高齢者にとって、病は避けられないものだ。今回は、健康に自信があった自分 が、それを証明した。近隣でも、病院生活と自宅を何回も往復している人は多い。 認知症の進行につれ、ショートステイに送り込まれる老人もいる。特養を20年 近く転々としている知人もいる。高齢者にとって、自宅での日常生活を自力で行 えることがどれ程大切な事であるか、今回の短期の入院で良く分かった。

 現在、外部照射治療は継続中だ。目立った副作用の自覚は無いが、前立腺は勿 論の事、直腸、尿道と膀胱の一部への障害は避けられない。排尿障害への覚悟は 暫く必要だ。外部照射終了後も、2年間のホルモン療法が続く。前立腺癌の治療 は、今回が最初で最後だ。後の健康管理は全て自力に委ねられる。生きている限 り、貴重な日常を維持するためには、一層の学習と努力が必要のようだ。

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