伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年2月14日: 我が第二の故郷 嬬恋村(その6−最終) U.H

 群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、もう25年を超えた。旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年余の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。この日誌でそうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について書いてきた。その最終版で、嬬恋村に想うことを書いてみる。

 安直・即物的な嬬恋村の現状

 嬬恋村にご縁が出来て50年以上、山荘を持って25年以上が経過し、嬬恋村に「第二の故郷」というような愛着を感じているこの頃であるが、そうした感情に基づいてあらためて嬬恋村の現状を眺めてみると、どうにも残念な歯がゆい感想を持ってしまう。

 ヤマトタケル伝説に基づく「嬬恋」の謂われ、日本的景観を超えた壮大ともいえる吾妻高原の豊かな自然、それらに基づいた豊富な観光資源、「夏キャベツ日本一」というような高原野菜の拡大、そして膨大な別荘に集う経済力や知識・専門性に富んだ都会人、・・・。

 そうした環境から考えると「自然の豊かさと知性の両面に裏打ちされた文化の香り高い村」というイメージが表れて然りと思うのだが、実態は旧態依然たる土木建築志向の強い、即物的な展開・活動が多いありきたりな体質から一歩も抜け出ていないように見える。

 観光資源として「愛妻の丘」を作り、観光客が「愛してる」などと絶叫する営みなど、いかにも安直・即物的であり、「浅さ」の典型を感じさせる。どうしてせめて「嬬恋の丘」くらいに出来なかったのだろうか。また年間の行事などを見てもマラソン大会とか花火とか、いささか底の浅いものが多いように見受けられる。

 安直・即物的な典型的事例

 実はこうした安直・即物的な「浅さ」の典型をごく近傍の他市の例に見ることが出来る。判りやすい事例を挙げると、隣町である長野県上田市では、観光の目玉項目を一にも二にも「真田幸村人気」に頼っている。真田一族のイメージ、あるいは上田城址についても、「真田幸村の上田城」などと喧伝している。

 そもそも豊臣、徳川の二大勢力の狭間で、小さいながらもたくましく特徴的に生き抜いた真田一族の事績は、地域の誇りとして価値ある資産である。しかしその中心は、吾妻や上田の地を経営し、上田城を築いた父親の真田昌幸であり、一族の成熟は昌幸の長子である真田信之の世代に出来ている。真田昌幸は、偉大な武田信玄の薫陶を受けた人物であることから、上田の地に置いて立派な治世を行うとともに、名城である上田城を築き、二度にわたって多勢の徳川軍を破るという快挙を成した。長子の信之は、徳川政権の外様大名への締め付けが苛烈なほど厳しくなる過程で、冷静な政治感覚によって真田家が幕末・明治まで生き残る礎を築いた。

 他方の真田幸村は昌幸の次男にすぎず、名を挙げたのは「大阪冬の陣、夏の陣」における戦術的な活躍レベルにすぎない。「立川文庫」的な豪傑への人気から「真田幸村」が名高いが、上田という地域にとって何ほどの貢献もしていない人物である。

 真田家は、信之の代に幕府によって同じ信州の松代に転封され、以降の二百年、上田は他家の支配下にあったにもかかわらず、真田の存在感、真田治世への親近感が後世まで上田の市民に引き継がれたのは、ひとえに昌幸、信之時代の記憶である。

 たしかに地味な存在でもある昌幸、信之よりも幸村の知名度こそが観光振興に手っ取り早いのであろう。しかしその手っ取り早さに頼って「真田幸村」を打ち出すアプローチこそ「即物的な浅さ」の典型である。たとえ時間と手間がかかっても、しっかりした大局観、ストーリーに基づいて、昌幸、信之の上田への貢献を世の中にアピールしていけば、本質的な上田の形成・発展を詠うことが出来、やがて文化性と質を伴った上田を支える観光資源となるであろう。そして観光のみならず地域の総合的な発展にも寄与していくことであろう。

 嬬恋村の在り方

 嬬恋村においても、村のイメージを文化性、歴史性と質を伴った形でアピールしていくアプローチが求められる。そのためには「安直・即物的なもの」に飛びつかず、英知を絞ったじっくりした構成を目指すべきである。 例えば「愛妻の丘」を例にあげれば、せめて由緒ある「嬬恋の丘」に変えることから始めるべきではなかろうか。

 さらに古今東西に存在する「妻を愛する」、「妻を偲ぶ」、「妻を称える」というような「嬬恋文学」を網羅した「嬬恋歴史文学館」を招致して、全国区レベルとなる中核施設を村内に設けることはどうだろうか。そうした中核施設とそれを支えるソフトを中心にして、「嬬恋」に関わる文化的なさまざまな活動を繰り広げるのはどうであろうか。

 嬬恋村の膨大な別荘地には、知識人や文化人、経済人、専門家等がたくさん関わっておられる。そうした方々と連携を保って、村の文化性、歴史性を意識したアピールをして、質と内容の伴った活動を展開していくことを切に期待したい。素人の手すさび故に正確性を欠く記述も多々あろうが、意とするところをくみ取って頂ければ望外の幸せである。

 小生はこの春に71歳になる。 高校生だった17歳のときに初めて嬬恋村を訪れ、30代後半以降に村内の友人の別荘に招かれ、40代なって自分の山荘を持つに至り、そして現在に至っている。 自宅から約200キロの地である嬬恋村へ、いつもマイカーで行き来しているが、何歳まで運転できるだろうか。いずれ新幹線で軽井沢駅まで来て駅レンタカーを借りるようになり、その次には駅前からタクシーに頼るようになり、さらにはとうとう来られなくなるであろう。致し方のないことであるが。 しかしいついつまでも嬬恋村へ行きたい、それほど気に入っている「第二の故郷 嬬恋村」である。

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