伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年2月2日: 韓国と韓国の友人達 T.G.

 最近の執拗かつ偏執狂的な韓国の反日を見ていて、昔の韓国と韓国の友人達のことを思い出した。

 1992年頃アメリカでCALSと言う活動が始まり、欧米8カ国とオーストラリアが加盟していた。日本でも経産省がスポンサーになってJECALSと言う団体を立ち上げた。そこの国際部長を務めていて、役目柄たびたび国際会議に出席した。日本に遅れて韓国が参加し、KCALSと言う団体を設立した、そこの代表に金東訓さんという方がおられて、会議でたびたびお会いして親しくなった。英語がまるで駄目なのに、欧米各都市で開かれた会議には必ず参加されていた。日本語の日常会話が出来るので、我々とは日本語で話された。東京やソウルでも交流があり、一度赤坂の高級焼肉店でご馳走になったことがある。中央日報に勤務されていて、以前は北朝鮮ウォッチャーをされていたと言うが、それに似合わぬ穏やかで物静かな方だった。彼の口から刺激的な発言を聞いた記憶がない。

 遅れてソウル大学のキム教授が会議に顔を出されるようになった。アメリカの大学に留学経験があり、英語が達者な方だった。CALSは商取引を紙の書類ではなく、ネットとデジタル情報でやろうという運動である。アメリカ国防省が調達合理化のために始めた活動だったが、一般的な商取引にも活用できると、各国に広まったものである。当時はまだWindowsも発売されておらず、インターネットも普及していなかったが、現在のネット通販など、電子商取引の先駆けである。若いキム教授はITがご専門で、会議メンバーには適任者だった。数少ないアジアからの参加メンバーという親近感で、会議ではたびたび連帯した。ソウルのご自宅近くの韓国料理屋に招待されたことがある。ご自宅はソウルの高級住宅街にあり、いかにもエリートという感じの方だった。

 金さん等の招待で、ソウルをたびたび訪れた。ホテルの前の大通りには三菱のデボネアがたくさん走っていた。今のヒュンダイである。三菱自動車の技術支援で、デボネアのノックダウン生産が行われていたのだ。総じてソウルは発展途上で、空港も今のインチョンではなく金浦空港だった。KCALSのメンバーの方に朝鮮の伝統的家庭料理の店に案内されたことがある。若い人たちをまじえて歓談した。会議の親睦会でサムスンの若い技術者と隣り合ったことがある。現在の巨大サムスンではなく、中堅の財閥企業だった。話しているうちに戦前のことに話題が及んだが、取り立てるような会話にはならなかった。今のような反日はなく、滞在中にそう言う空気を感じることは一度もなかった。新聞テレビでも、反日がニュースや話題になることはなかった。我々もそう言う先入観でソウルを訪れなかったし、迎える韓国の人たちも同じだった。たった20年前のことである。

 それが今ではどうだろう。韓国でも日本でも、ニュースになることは反日しかない。それ以外のことは一切話題にならない。日本人の我々からしたら、何も宗旨を変えたつもりはない。昔のままである。それまでも靖国参拝は行われていたし、韓国はとっくの昔に竹島を占領していたし、朝日新聞が従軍慰安婦をでっち上げたのは1991年のことで、それ以前はそもそも「従軍慰安婦」という言葉も概念もなかった。日本人の歴史認識は当時も今も同じなのに、韓国の反日だけが異様に燃え盛った。特に激しくなったのは李明博政権以来である。今の朴政権になってさらに異常さが増した。もはや常軌を逸していると言っても過言でない。いったいどういう風の吹き回しだろう。韓国人の歴史認識が突如変わったとでも言うのだろうか。

 それで思い出したのは金大中のことである。97年に大統領になって、北に対する太陽政策でノーベル平和賞をもらった政治家である。今の北朝鮮の現状を見ると、ノーベル賞もかなりいい加減なものだ。金大中は若い頃から李承晩、朴正煕など、歴代軍事政権に楯突いた革新派の政治家で、たび重なる迫害を受けた。朴正煕は現在の朴大統領の父親である。日韓基本条約を締結し、日本からせしめた資金で漢江の奇跡を起こした。その朴政権さなかの昭和48年、金大中は日本滞在中の帝国ホテルから何者かに拉致される。危うく日本海の船中で暗殺寸前まで行くが、間一髪のところを日米の外交圧力で免れる。拉致はKCIAによるものだったが、平時の昼日中、他国の首都の一流ホテルでこのような蛮行が行われたら、外交問題に発展するのが国際常識である。しかしながら当時の日本政府は一切口出しせず、不問に付した。こういう積み重ねが韓国を甘やかしたのだろう。今の反日の素地になっているのだろう。

 金大中は明治時代の併合前の独立運動家、金玉均に似ている。両者とも反体制活動で、本国政府の迫害を受け、日本に逃れた。その後滞在先で暗殺の目に遭ったのが共通している。日本に逃れた金玉均はその後上海に亡命し、そこで待ち受けていた暗殺者の手にかかった。金大中もまったく同じ運命を辿ったが、日本政府の外交圧力で危うく暗殺だけは免れた。当時の田中角栄首相が、目白の自宅で金大中の暗殺計画を知ったとき、「そんなことをしたらソウルを爆撃する」と激高したと言う。話半分としてもそれに近い状況はあったのだろう。彼を含めて、当時の中国や朝鮮の反体制活動家は、迫害を受けると例外なく日本に逃れ、日本の庇護を受けている。孫文、蒋介石も然りである。それにしても質素であるべき反体制活動家が、逃亡先でこともあろうに超一流ホテルに長期滞在していたと言うのは漫画である。普通ならそのことだけで国民の支持を失うだろう。韓国民はどう思っていたのだろうか。

1925年生まれの金大中は、戦前の併合時代の教育を受けている。日本語が達者で、記者会見は流暢な日本語で応じていたのを憶えている。併合時代の日本統治の実情を熟知していたこともあり、日本には友好的であった。日韓ワールドカップ開催など日韓交流に努めた。天皇陛下を「日王」と言う蔑称ではなく「天皇」と呼んだ。小渕政権との日韓共同宣言では「もはや過去の問題は持ち出さない」と明言した。日韓関係がおかしくなったのはその後の盧武鉉政権からである。この戦後生まれの左翼政治家は、体制維持のために親日派を弾劾する親日法を作り、歴史認識の変更を求めた。一種の人気取りである。続く李明博、朴槿恵政権になり、その激しさが増す。今では韓国政府の対日政策は、靖国、慰安婦、歴史認識、歴史教科書の4点セットだけで、それ以外は皆無である。首脳会談にも応じようとしない。日韓併合時代の真実を肌で知らない政治家ばかりになった故だろう。日韓両国にとって嘆かわしいことだ。

 あの春風駘蕩たる穏やかな金さん、キム教授は今頃どうしておられるのだろう。

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