伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年1月28日: 体験 高線量率組織内照射による前立腺癌の治療 GP生

 昨年から始まったホルモン療法が6ヶ月を経過し、癌治療は新たなステージに入った。高線量率組織内照射(HDR)と呼ばれる放射線治療がそれだ。通常、放射線治療は身体の外部から前立腺をターゲットにして照射される。CTを利用した精密照射が開発されたとはいえ、外部照射では周辺臓器への合併症を避ける為、低線量を40回近く照射することになる。癌の治療効果は線量が多いほど効率が良いが、外部照射では一回の線量に限度がある。

 HDRは会陰部から、中空の針を前立腺に16本から20本刺し、その中を小線源として、微細な粒状イリジウム192を20分前後循環させ、ガンマ線を照射する治療法だ。HDRは照射が前立腺内部に限られるために高線量の照射が可能で、癌細胞消滅効果は極めて高い。目標線量は18グレイだ。一方、副作用は前立腺に接する膀胱の一部が影響を受けるものの、他の周辺臓器の合併症が少ない放射線治療法と言える。これを2日間一回ずつ行う。アースマラソンの間寛平は、20本刺したと聞いている。

 放射線科のNa医師は「放射線によるガン細胞の消滅は直接効果と間接効果に分かれる。放射線が癌細胞のDNAを直接損傷する割合は30%、細胞内の水が放射線で分解され、発生する活性酸素によるDNA損傷が70%だ。DNAを損傷されたガン細胞はアトポーシスにより消滅する。正常細胞のDNAも損傷を受けるが、正常細胞は自己修復能力が高いので、最終的にダメージは少ない。放射線治療は細胞修復能力の差を利用した治療法と言える。」と話してくれた。イリジウム192は、原子炉内で白金族のイリジウムに熱中性子を当て造られる放射性同位元素だ。半減期は73.8日。最終的には白金192になり安定する。日本では工業用非破壊検査用は製造されているが、医療用は全量輸入品だ。慈恵医大でのHDR治療は、一週間に1人しか出来ないそうだ。

 慈恵医大病院には、午前中に入院した。第1日目は午後に尿検査があっただけで、後は病室で過ごした。久し振りに日常の雑事から開放され、持参した本を読みながらリラックスして終日を過ごした。但し、昼食から絶食が始まり、水分は夜9時の抗生剤と下剤の服用時が最後となった。

 第2日目は治療開始日だ。6時に看護師による浣腸、7時30分に手術着に着替えた。下肢深部静脈での血栓防止の為、弾性ストッキングを着装し、病室での準備が完了した。8時に手術室まで最後の自力歩行。以降は全て、ストレッチャーに身を任せる事になる。準備室で看護師から「緊張しませんか」と聞かれて、それらしい感じがないことに気付いた。HDR治療への好奇心の方が強かったのかもしれない。

 手術台では主治医のSi助教による2種類の麻酔処置が始まった。最初は硬膜外麻酔で、背骨の硬膜の外側に細管を10センチほど差し込む措置だ。この細管にはHDRが全て終了するまで、患部の痛みを緩和するための麻酔薬や鎮痛剤が連続して注入される。皮下麻酔の後に細管が刺されるが、一回目は骨の通路が狭く挿入不可となり、少し下部に再挿入された。次いで、注射器で腰椎麻酔が行われた。暫くして、最後まで動かせた爪先の感覚が消失して、下半身麻酔は終了した。尿道に排尿管が差し込まれ、準備作業は完了した。下半身は麻痺していても、上半身が正常なのは善し悪しだ。

 いよいよ、中空針の挿入が始まった。直腸内にエコー装置を挿入し、モニターに拡大された画面を見ながら、会陰部から挿入する。エコー装置に針挿入のガイド装置が付属していた。顔を少し動かすとモニター画面は良く見えた。針は長さ約100mm、外径1.5mm程度のプラスチック製で、先端が鋭くとがっている。挿入本数は20本だ。針の先端には純金の微小片が付いていて、定位置に残留しマーカーとして利用されるそうだ。純金片は前立腺内に永久保存される。外部に飛び出した針は、特殊な用具で固定され一体化された。下肢麻酔の為に、痛みその他の感覚は無い。次いで、放射線室に移動し、患部のCT を数回撮影して、11時頃病室に戻った。病室では、生理食塩水、麻酔薬の点滴の続行と新たに抗生剤の点滴が始まり、午前中の処置は全て完了した。

 15時、放射線治療室に入った。最初に、針位置の修正が始まった。針を刺した後、前立腺が腫れるため針位置が微妙にずれるためだそうだ。CTで確認しながら、純金マーカーを目標に修正を行う。この操作を都合3回行った。この操作は、経験と技術を要することが良く分かった。次いで、中空針の中に小線源が循環する細いパイプを挿入固定された。これで小線源循環システムは完了だ。設置針は20本、小線源用パイプは18本のため、照射は2回にわたって行われた。最初の18本分は25分、残り2本分は5分間の照射となった。この時には、患部以外の麻酔が切れているので、身じろぎもせず同じ姿勢を維持するには精神力を要する。時間の経過は恐ろしく長く感じた。総治療時間は1時間20分。 16時30分頃に病室に戻った。

 17時30分頃、看護師が点滴と排尿の確認に来て、排尿が止まっているのを見つけた。連絡を受けた当直医は「尿管の先端に血栓が詰まっている」として、尿管を交換した所、今度は、先端の風船が破れた。風船の残骸が、尿管を塞ぐ恐れがあるとの事で、再挿入となった。膀胱内まで挿入された尿管が抜けるのを防ぐため、先端で風船を膨らませストッパーにするとは、初めて知った。前立腺からの出血か予想以上に多かったので、血腫が生じた様だ。膀胱内に蒸留水を圧入して、膀胱内を何回も洗浄した。これがとてつもなく苦しい。我慢できずに何度も呻き声をあげた。

 洗浄後、血栓防止のために、「膀胱留置用ディスポーザブルカテーテル」と称するダブル管が挿入された。挿入3回目だ。一本は生理食塩水の点滴流入用で、もう一本は排出用だ。通常菅の二倍近い太さで、尿道の圧迫感は普通ではない。500mlの生理食塩水2パックが吊るされた。夜間にも交換され、翌朝8時まで点滴が継続された。通常管の何回もの挿入も苦しいが、ダブル管の挿入時には声を抑える事は出来なかった。全ての処置が終わったのは19時を過ぎていた。シフト交代の時間帯であったので、泌尿器科医3人、女性看護師3人、男性介護士2人が集まった。一寸した騒動だ。検査の時の主治医であったKi先生の顔も見えた。痛み緩和の為に、麻酔薬の定量点滴装置がセットされた。注射器に入った50ミリリットルの麻酔薬を毎時3mlの割合で精密コントロールする。麻酔薬の効果で苦痛は次第に和らいできた。上半身は動かせるものの、残置針の為、下半身は動かすわけにはいかない。翌朝まで、夢と現の間を行き来した。

 翌3日目の6時頃、会陰部用の麻酔薬が切れ、時間の経過とともに痛みが強くなった。8時30分当直医が硬膜外麻酔用の管に麻酔薬を注入すると、痛みは次第に和らいだ。9時、放射線治療室へ搬送され、二種類の抗生剤の点滴がなされた。針位置修正は3回、放射線照射は18本分は23分、残り2本分へは3分30秒で終了した。これで、HDR治療による18グレイの線量照射は全て完了した。

 11時頃、病室で抜針が行われた。まずは1本抜かれた。麻酔が切れているので、瞬間的に激痛が走った。後19回と覚悟していると、突然、初回とは比較にならない激烈な痛に見舞われた。一度に17本抜いたのだ。残り2本が抜かれた時は、全てが終わった安堵感から、思わずため息が漏れた。医者は「痛みは一瞬なので通常は麻酔はかけない」と言っていた。次いで、背中の管が抜かれた。生理食塩水と抗生剤の点滴が継続され、後は、疲れ切った体をベットに横たえるのみだった。夕方、点滴管が抜かれ、装着は尿管のみとなった。

 この日の夜から、食事、飲料が可となった。夕食は通常食で、とても食べる気にはならず、少し手を付けただけだ。準備してきた、配合タンパクにレシチンとビタミンC・B群を加え、シェーカーで撹拌し、ビタミンA、E、Q10、ベーターカロチンの錠剤と一緒に飲んだ。家人の差し入れによる黄粉入りヨーグルト150gを食した。この夜は、痛みから解放されて静かに眠れた。ダブル尿管は施術前に病室で、通常管に交換されたので尿道の苦痛は無い。

 4日目の朝食は、食べられる物だけ食べ、後は、昨夜と同じ特別食を摂取した。9時30分当直医の女医により、膀胱洗浄後、排尿管が撤去され、身体に装着された人工物は全て無くなった。11時頃自力排尿。尿量と状態チェックの為に検査用カップに排尿した。青色の風船の残骸がカップの底に沈んでいた。昼食は特別食だけで済ませた。13時頃、2回目の自力排尿。尿量、質とも異常なく、退院の許可が下りた。

 入院費の会計時に、A4紙3枚の診察明細書を貰った。投薬、注射、麻酔に用いられた薬剤と入院中の検査内容及び画像解析や高線量イリジウム等の詳細が書かれていた。治療中には自覚することが出来なかった多種の薬剤や多岐に亘る治療内容に驚いた。今回の治療に際してのマンパワーも半端ではない。手術室や放射線治療室では、4,5人が役割分担で従事していた。寝たきりの患者のベット間移動は4人がかりだ。それでいて、差額ベット代は別にして、治療費は3割負担で一桁の後半だ。前期高齢者の入院治療の限度額を超える事がないからだ。一割負担の患者では一桁の前半で済む。信じられない思いで会計を済ませた。我が国の社会保障システムの素晴らしさに感謝するとともに、健康保険の赤字原因を見た思いだ。

 退院時は、3日間のベット生活による筋力の低下で、歩行に力が入らなかったが、放射線による身体不調は感じられなかった。入院中は出血多量によるトラブルはあったものの、HDRによる前立腺癌治療は計画通りに終わった。主治医のSi先生や多くの先生方、看護師、介護士の皆さんにの努力に、唯々感謝するだけだ。10日間の休息後、16回の外部照射が待っている。今は何も考えない事だ。タクシーでの帰路は、全てから解放された喜びと、癌治療の最大難関を乗り切ったことで、今までに感じたことが無い満ち足りた思いで過ごした。

 翌日から、新たな悩みと苦しみが待っているとは、この時は知る由もなかった。

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