伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2014年1月12日: 我が第二の故郷 嬬恋村(その5)U.H

 群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、もう25年になる。旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。この日誌でそうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について書いてきた。その続きである。

貴重な観光資源「高山植物」

 嬬恋村の観光資源として名高い高山植物に湯ノ丸山のレンゲツツジと「浅間高原しゃくなげ園」のシャクナゲがある。群馬県吾妻郡嬬恋村と長野県東御(とうみ)市の県境に 湯ノ丸山 という2千メートル級の穏やかな山があり、湯ノ丸高原を形成している。その「湯の丸高原」は国の天然記念物になっている「レンゲツツジ」の名所であり、6月末から7月初旬にかけて、真っ赤なツツジの花が辺り一面を覆う様は圧巻である。

 ちなみにこの辺りは牛の放牧地としても名高く、暖かい時期になると傾斜地で牛がのんびりと草をはむ姿が見られる。知る人ぞ知ることだが、牛がレンゲツツジを食べると毒として作用するそうで、牛はけっしてレンゲツツジの葉や花を食べないのだそうだ。(牛は、どうしてそれが毒だと知るのだろうか。母親が教えるのか、それとも一度ひどい目にあって知るのだろうか。)したがって牛が周辺の草や灌木の葉をはむことで、レンゲツツジの勢いも保たれ、一帯はレンゲツツジの大群落をなしているのだという。

 しかし、グローバル化の波はこの世界にも押し寄せ、酪農製品の自由化が行われた。それ以降、我が国の酪農業界は厳しい競争にさらされることになり、一部を除いて酪農経営が縮小しつつあるそうだ。湯ノ丸山に放牧される牛も往年の姿は失われ、このところ十数頭が放牧されるレベルに止まっている。その結果、本来なら牛が食べてくれるはずの草や灌木が勢いを増し、レンゲツツジを押しのけるような作用が始まっているため、天然記念物を守るべく、やむなくボランティアという人様が牛の代わりをして、下草を刈っているのだそうである。

  蛇足だが、長野県下高井郡山ノ内町の奥志賀といわれる辺りにも牛の放牧地がある。志賀高原といえば、白樺の森林が美しいところだが、ここでは牛が下草をはむことによって、白樺の純林がほどよい状態に保たれ、大変に美しい景観をなしている。ここでも放牧される牛の数は往年の数には及ばないのだが、レンゲツツジとは違って白樺は喬木であるため、そこそこの調和が保たれているそうだ。このところレンゲツツジの見頃、はたまた白樺の新緑や黄葉の季節に当地を訪れ、自然の摂理に我が感性を委ねるとともに、社会経済のうねりをも感じながら季節の移ろいを楽しんでいる。

シャクナゲ、アララギ園の献身

 浅間山麓の標高千3百m〜千8百mにまたがる尾根に、「浅間高原しゃくなげ園」という植物公園があり、5月下旬から6月上旬辺りにかけて15万株ものシャクナゲが咲き誇る景観はまさに圧巻である。このしゃくなげ園が今日の姿に至るまでには、その背景にある篤志家の献身的な努力があった。嬬恋村大笹地区で植木卸を生業にしている「アララギ園」という会社がある。その代表者の坂井さんが、絶対に不可能と言われたシャクナゲの大量栽培を試みたのはもう数十年前のことである。

 シャクナゲは小さな苗のときには強い日射や乾燥に弱く、ちょっと油断すると枯れてしまう。しかし坂井さんは試行錯誤の末に確実に苗木を育てるすばらしい方式を確立した。まず松の灌木を植え、その樹間にシャクナゲの苗木を植えるのである。シャクナゲがある程度まで成長する過程では松の枝葉が適当な日よけになって、苗木の乾燥を防ぐ。そしてある程度以上に苗木が生長したら松の木を枯らせて、シャクナゲを日の元に晒すのである。この`松の木を枯らす`にも足下付近の木の皮をくるりと剥いて栄養を絶つことによって、木を枯らすという「剥き枯らし方式」をとっている。

 このようにしてシャクナゲの大量栽培に成功した坂井さんは、浅間山の山肌に成長した苗木を植え付けることに着手したが、広大な浅間山の山麓にシャクナゲを植えていく試みは、砂漠に水をまくに似て、始めの頃は周囲の村民からなかなか理解が得られなかった。しかし坂井さんが膨大な苗木を寄付するに及んで、ようやく村人の中から協力者が出始め、いわば村民公園ともいうべき今の姿に到達したのである。植物公園にはシャクナゲのみならずレンゲツツジやコマクサ、ヤナギラン、マツムシソウなどの高山植物が次々と咲いて、高原の短い夏を彩ってくれる。

別荘産業

 嬬恋村の人口は約9千人レベルであり、ご多分にもれず高齢化の兆しも始まっている。一方で、村の別荘数はゆうに5千棟を越えているという。この「別荘5千棟」のもたらすものは、村にとって筆舌に尽くせぬほどに大きいといえる。我が国において数十年来続いている過疎の村に産業を誘致する試みは、労多くしてなかなか実を結ばないのが世の常である。工場などを誘致するには膨大なインフラ投資が必要になる上、自然破壊や公害等の弊害が伴う場合もあってすべてが万々歳ということにはならない。

 そうした中で、いわゆる「別荘産業」は、村の豊かな自然をほどほど保存しながら、都会の裕福な人々を招き寄せて消費を呼び、村民にさまざまな雇用機会をもたらす。建物の建築、外構・園芸、各種設備等の需要にはじまり、ついでそれらの保守、清掃などを要し、さらには食材・食事供給、エネルギー供給などのさまざまなサービスを求められる。そして公共的には、住民税ほどではないにしても、別荘税などをもたらす。

 やってくる都会人の文化的な素養や高度な嗜好などによって、村の住民にさまざまな刺激をもたらしてもいる。例えば「インタープリーターの会」というNPO法人が村内に出来ているが、別荘地の住民がお互いの観光知識、生活知識などを持ち寄って、ボランテイアでの諸活動に勤しんでいる例がある。また別荘をアトリエや工房にして文化・芸術創作に励んでいる住民や、定年後に永住に移行する者も多く見られるようになっており、年月の推移に応じてますます多様化に途を辿っている。

村の運営、財政など

 これまで述べてきた「夏キャベツ日本一」、豊かな自然と観光資源、そして「別荘産業」などの近況を見てくると、嬬恋村の財政は大変豊かなのではないかと想像される。そう思って近隣の村民に聞いたところ、ひどく浮かぬ表情をして思わぬ言葉が返ってきたのだ。曰く、いわゆる「キャベツ農家」などは「キャベツ御殿」といわれるような豪邸におさまっていたりして豊かなのだが、村の財政は大赤字なのだという。件の「平成の大合併」に際しても、村の膨大な財政赤字故に近隣の町村からそっぽを向かれたらしい。

 そうした事例は、嬬恋村に限った話ではないが、嘗ての右肩上がりの時代に、国や県の補助金を当てにして、さまざまな公共投資に村の金をつぎ込んできたようだ。村議会議員の中核を地元の土木建築業者が握り、広域農道や林道等の道路設備、大字レベルの集落への小学校設置、はてはスキー場の建設などと、際限なくやってきたようである。村の南北に「パノラマライン」という国道並みの広域農道が走っており、他にも舗装された村道、林道が大量にあるが、交通需要を計って建設したとはとても思えない代物である。

 近年の事柄では、特にスキー場建設が響いたようだ。建設を計画した頃には、すでに全国的にもスキーの人気が曲がり角に差し掛かっていた。それなのに着工は強行され、予想以上に出費が嵩んだ。嬬恋スキー場などでは、必ずしも安定した積雪が見込めず、それを人工降雪機で補う計画であったらしいが、相当な客数が見込めないと人工降雪機は膨大な電気代負担を消化できない。在の村長になって以来、村財政の立て直しのための努力が少しずつ進められているそうだが、村の苦しい財政運営は当分続くようである。

 次回は「嬬恋村に想うこと」を書いてみたい。

目次に戻る