伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年12月14日: 高齢の闘病者にとっての自力と他力 GP生

 学生時代からの山の仲間であるWaさんの事は、度々この日誌に書いてきた。そのWaさんが脳梗塞の再発で入院した。血糖値も上昇したと言う。肺癌の治療中の出来事で、失明中のWaさんに、更なる追い討ちがかかった。福島の山中に一人住むSa君が、心配して送ってくれたメールに対して、次のように返信した。

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 Waさんの糖尿病、脳梗塞、肺ガンは全て生活習慣病ですね。50代以降の食生活、喫煙の有無、飲酒の多寡、睡眠時間、運動、ストレスが、これ等の病気の要因なることは良く知られています。いずれにしろ、無茶な生活をすると70代になって、生活を改めても、時すでに遅いようです。ガンによる自覚症状は無いのは幸いなのですが、目が見えない中、肉体的症状よりメンタルの方が心配です。

 人間、何れ寿命が尽きますが、そこに至る経緯が問題です。歳を取れれば、たとえ今は問題が無くても、自分にとって死とは何かを考える必要があると思っています。肉体は死んでも、人の本体である魂はあの世に戻ります。肉体の死は、魂の死ではないと知ることが出発点です。あの世では、この世で成長した魂のレベルで人の居場所が決まるそうです。行く先は如来界から地獄界までの何処かになるのでしょう。

 あの世では潜在意識の90%が開かれていていますが、この世には閉じられたまま誕生し、成長するにつれ紐解かれていくようです。潜在意識は開かれはしますが、それでも最大10%程度だそうです。だから人は考え、悩みながら手探りで生きるざるを得ません。生きる過程で人は過ちを犯し、後悔の念と共に反省を繰り返すことになります。これの繰り返しが、人の成長の原動力になるのでしょう。ですが、「気が付いたら、いつの間にか70代を迎えていた」が実感です。

 もしWaさんが自分の病に苦しみ、暗い心でこの世を去ったとしたら、彼の魂の行く先にはさらに辛い世界が待っているでしょう。彼の病は自らの行いにより招いたものである事を自覚することが出発点です。不治の病であるなら、病と共存し、いかに生きるかを考える事が、悩みを克服する第一歩になると思っています。それには、懸命にWaさんを支えている、家族の皆さんに感謝することです。心から感謝することで、反省する心は深まり、自らの病の苦しみからの救済に繋がると信じています。

 Waさんの問題は、高齢者にとっては誰でも身近なの問題です。何れ遠くない将来に我々も直面することになるでしょう。加齢を重ねた先にある死から誰も逃げられませんから。

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 自分の前立腺癌は、Waさんに比べたら可愛いものだ。それでも、癌と分かった時は、色々な事を考えた。Waさんの場合、如何ばかりであったろうか。病人は、自分の病に単独で対処できない。まずは医者の力を借り、検査により病の実態を認識することから始まる。薬や手術により完治できれば良いが、老人の場合は死に直結する病が多い。現代医療とて万能ではないし、治療による結果のすべてを、予測出来るものでもない。同じ病でも個人差は極めて大きい。80歳、90歳であればともかく、70歳代は極めて微妙な年齢だ。従って、「他力」は必要にしても、自分自身が病と向き合う「自力」が大きな意味を持ってくる。

 先月末に、小学校の同級生であるKa君の奥さんから電話を貰った。「ようやくお骨を収める墓所が決まったので、主人の誕生日に納骨が終わらせました。一年間、毎日手を合わせたお骨が無いのは淋しい気もしますが、けじめがついた思いです。クラスの皆様に、お世話になりましたとお伝えください。」との事であった。Ka君は27年間、難病と共に生き、最後に癌が全身に転移して、昨年10月亡くなった。入院中は、病院が自宅から徒歩2分の場所にあるので、機会あるごとにお見舞いに行った。

 その頃は、口はほとんど聞けず、自分が帰る時の「さ・よ・う・な・ら」が、精一杯だった。見舞中に会話は出来ないが、自分が話す言葉に反応する目と表情で、彼の気持ちを推測した。途中、笑い顔すら見せた。彼が亡くなったとの電話を受け、駆け付けた病室で見た、彼の穏やかな顔は忘れられない。入院中は、むくんだ手足を動かすことも、顔を左右に振ることも出来ない状態であっても、彼が平常心を保っていることが感じられた。見事な生き方だ。

 彼は末期癌で、先が長くない事は承知していた。長い闘病生活で何かを悟ったのかもしれない。運命に素直に従える所まで、自らを高めたように思えた。医者は余命について何も話さなかった様だ。一般論として、末期癌患者の余命は予想は出来るかもしれない。個人のそれを予測し、宣告するのは、神でもない医者の僭越な行為だと日頃思っている。人間の魂に対する冒涜でもある。終末医療を専門としているこの病院は、患者の人間性に対しての理解が深いことが感じられた。自分の母が死ぬまでお世話になった病院だ。

 Ka君の様に自分の運命を悟り、この世を去って行ける人は少ない。歳を取ると、葬儀への参列機会が増え、出棺の際のお別れで、故人と対面する機会も多くなる。お棺に横たわる故人を見た時、Ka君の様に穏やかな顔は少ない。死にたくない思いが顔に刻まれ、見るも無残な形相の故人との対面は辛いものだ。思わず顔をそむけたくなる場面もある。この世での運命を自力で克服できなかった悲劇がそこにある。

 病を得て完治不能と悟った時、人は生きてきた結果が試されることになる。肉体は、本来有する治癒力で、病を克服しようとするものだ。家族や医者、介護者たちの力を借りて、自然治癒力を高める努力は必要だ。例え治らなくても、病と共存し、日常生活の質を高めることは可能だからだ。これ等、他力を受けられる人は幸せだ。Ka君の奥さんは27年間生活を支え、彼の面倒を見た。彼女の菩薩のような行為は、誰にでもできるものではない。

 同時に、自力により病に向かい合いう覚悟が必要になる。先の返信メールに書いたように、殆んどの病は長年にわたり自らが招いた結果だ。自分の前立腺ガンにしても、自分の過去の生活の中に原因を見出せる。他を恨み、自らの運命を呪っても、何も生み出さない。苦しみが増すだけである。宿命は変える事は出来ないが、運命は自力で作りだすものと信じている。例え不治の病であっても、病と共存できるか否かは、自分の心の在り方にかかっている。

 知人の女性は、日頃「人間は死んだら無になる」と言っている。それを心から信じていることは、金品に対する執着が強いことで分かる。この世で得た物はあの世に持っていけない。持って行けるのはこの世で修行した魂だけだ。あの世の存在を信じず、魂の存在も信じなければ、この世だけが全てとなり、損得が最大の関心事になる。物欲を抱いたまま、自身が死を迎える時、死にたくないとの強い思いを抱いて、あの世に旅立つことにもなる。その先に辛い世界が待っていることを知る由もない。如何に病に対処するかは、結局は自身の生き様が問われている事になる。自分は人生末期の身をベットに横たえながら、平常心を保ち、その時を迎えられるだろうか。Ka君の様な澄んだ心境になれるかは、これからの生き方に懸かっているのだろう。

 WaさんやKa君の病は例外でもなく、他人事でもない。70歳を過ぎた老人にとって、何れ自分に訪れる現実との認識が必要だ。現世は自己責任、因果応報、作用反作用の世界である。他に責任をなすりつけて逃げる事は出来無い。いずれ自分に戻ってくる。だからこそいかなる困難も苦しみも、自力で乗り越えて行かなければならないのだろう。老病者も同じだ。病を見極め、他者の力を借りながら、自力で病と共存していく覚悟が問われている。心の安らぎは、自力でしか得ることが出来ないからだ。

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