伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年9月16日: 父親と息子の絆 GP生

 先日、孫にとって小学校最後になる運動会を見に行った。孫は騎馬戦で大将として活躍し、組体操では最下層の駒として頑張っていた。徒競走では、毎年3,4番に定着していたのに、2位を大差で引き離しゴールした。爺バカの一人として、孫の成長は何にものにも勝る喜びだ。目の前を力走して過ぎ去る孫を見て、高1の時に、800m走の選手として出場した、遥か昔の運動会を思い出した。父兄観客席の前を通過した時だ。自分の名を呼びながら「頑張れ」との大声が聞こえた。父だった。まさか、あの父が、此の様な激励をするとは想像できなかった。驚くと同時に、気恥ずかしさを覚えた。生涯で、ただ一度の出来事だった。

 息子が起こした不祥事への対応のまずさ故、「みのもんた」がテレビや週刊誌で叩かれている。日頃、テレビで「責任者は逃げるな」とか、「親の顔が見たい」と声を荒げて、辛辣な批判を繰り返してきた反動が、今度は我が身に降りかかってきた。ダミー車を使ってまで、マスメディアから逃げて廻る姿に、小心で臆病な本性が透けて見えた。

 息子の不祥事に、父親が何所まで責任があるかは、難しい問題だ。しかし、不祥事を起こした息子に対し、何を話し、何を成すかは父親の責任だ。不祥事への対処の仕方を見れば、息子をいかに躾け、育ててきたかが垣間見える。インタビューでは、息子を中学生の時まで殴って、「厳しく育てた」と答えているが、世の父親は「?」を覚えるだろう。腕力の行使を、厳しさと捉える感覚に違和感を覚えるからだ。「仕事が忙しくて、息子に接する機会は少なかった」とも話している。

 今回の報道を見ていて、自分が育ってきた環境と父との関係が、自然と思い出された。自分が生まれた時に、父は支那事変で出征し北支に駐屯していた。復員してから暫くして、昭和19年に赤紙出征で千島列島の択捉島に駐屯した。終戦と同時にシベリアに抑留され、帰国したのは昭和24年11月、自分が小学校4年の時だ。終戦時に5歳であったのだから、終前の父の記憶は殆んどない。

 父の出征中、母は床の間に小さな膳を置き、父の写真を飾った。毎日お茶を備えて、父の無事帰還を祈っていた。自分が母に叱られる時には、床の間の前で、「お父さんに謝りなさい」と言われ、写真に向って「ごめんなさい」と頭を下げさせられた。当時、生活は貧しかった。「お父さんが帰ってさえ来れば」とは、母の口癖だった。父の復員は、自分にとって夢であった。

 そんな幼少期を過ごした自分は、品川駅でシベリアの防寒具に身を固め、復員列車から降りて来た父を見て、「お父さん」と叫びながら近寄ったものの、現実感を持てなかった。作り上げた父親のイメージと、現実の父が異なったからだ。帰国してからの父は懸命に働いた。若い時、大手の印刷会社で働いた父は、叩き上げの印刷職工だった。腕は一流であったようだ。何枚もの賞状が今も残っている。残業や休日出勤続きで、父の顔を見るのは、たまの休日のみだつた。

 娘と息子の教育や躾は、全て母任せだった。中学、高校進学も母任せ、大学は本人任せで、進学問題で父と話した経験はない。必要なお金は、何も言わずに出してくれた。中学で山岳部に入部した時、父は黙ってリックサックを買ってきてくれた。嬉しかった。通常は、息子のすることを黙って見守り、細かいことは母任せだった。父親に叱られたのは、唯一度だけだ。何が原因であったか記憶は定かではない。小学5年の時、父の逆鱗に触れた自分は、小脇に抱え込まれ、何も言わず、二階の押し入れに放り込まれた。息子の行いに対する、職人気質の父の表現だった。父の修行時代、先輩職工から殴られ、軍隊時代も殴られてきた。けれど、自分の子供に手を挙げたことは一度としてない。

 父は、働らき、家族を養うのに忙しかった。自分の少年期に、遊びに連れて行ってもらった記憶はない。日曜には、少し離れた場所にある畑で、家族総出の農作業が待っていた。リヤカーを押し、鍬の使い方や畝の作り方も覚えた。母との会話に比べて、父とのそれは圧倒的に少なかった。それでも、父親と息子の絆は、間違いなく存在した。父は、「みのもんた」と異なり、名も無き庶民だ。

 「みのもんた」は「自分が有名人でなく、普通のサラリーマンであれば、息子の不祥事に対して、バカヤローで済む」との言を弄している。サラリーマンの父親だとしても、「バカヤロー」だけでは済まない。勘違いもいいとこだ。子供の躾に、父親の学歴や社会的地位は全く必要ない。場合によっては、邪魔になる事すらある。必要なのは、父親が全人格を持って、息子と接する心構えだ。それさえあれば、会話が少なくとも、息子は真ともに育つ。父親が有名人であれば、息子に無形のプレッシャーがかかる。それを庇うべき父親は、腕力で強圧的に息子に接した。コミュニケーションの達人として、自他ともに認める男は、息子との意思疎通を図る努力をしなかった。

 「みのもんた」は事件後、息子に会った時、何も言わずに帰って来たとも話している。話す言葉が無かったそうだ。テレビ、ラジオで、話すことが天職だと言っている男が、不祥事を起こした息子に話す言葉ないとは、たちの悪い冗談に思える。今回の不祥事に対する父親の責任は、幼少期から少年期にかけての大事な時期に、息子との絆を築かなかった不作為にある。息子の努力だけではどうにもならない。父親の息子に対する愛情と、その表現が全てなのだから。

 自分の二人の息子は、就職先の選択を彼らの意思で行った。入社が決まった時、「自分で決めた仕事だから、これからは全部自分の責任だよ」と言っただけだ。如何なる職業を選ぼうと、全てが順風満帆に行くはずがない。苦しい時、辛い時に、耐えて乗り越える力は、自らが選択した仕事であるとの自覚で湧いてくる。親のコネと七光りで就職した者に、その様な力が湧くはずはない。下手をすれば、挫折し、屈折した人生が待っている。

 甘やかされて育った子供が、成長過程で不良化したり、警察のお世話になる例は、巷に多々ある。成人し、現在は、まともな社会人として、円満な家庭生活を送っている知人を知っている。そこに至る過程で、此の息子への対応に四苦八苦している親を見ていると、天に吐いた唾が、自らにかかっている様に思えた。「みのもんた」は、少年期の息子との触れ合いを怠り、事が起きてからの対応を誤った結果、自らの社会的基盤を失った。再起するには、歳を取りすぎている。因果応報、自己責任は、現世に生きる者の厳しい摂理だ。功成り名を遂げることで、己の現実が見えなくなる人は多い。

 先日、中学三年の孫と、小学校の先生達の話になった。彼女は、自分が通った学校の先生を厳しく批判し、「このままでは小学校崩壊だよ」と言い出した。中学生ともなれば、大人に近い感覚で物事を考え、自分の言葉で表現できる。成長している息子に気付くこと無く、殴ることが、厳しさの現れと勘違いしている「みのもんた」に、テレビ人として、視聴者に語りかける資格は無い。インタビューで、多彩な文言を連ねて、己の社会的レッテルにしがみ付く姿は、老醜以外の何物でもなかった。

 自分の父は長年の無理がたたり、今の自分の歳に、人工透析をする羽目になった。週三回、自分は、出勤前に車で父を透析病院へ送った。車内での短い時間、色々な話をした。職人気質で融通が利かない父であったが、家族の助け無しに、生活が出来ない状態に置かれたことで、次第に心を開いていった。お蔭で、本当の父に触れることが出来た。お互いの心のひだに触れる話もした。母の事、家業の事、相続の事等、父から色々な事を託された。父との濃密な会話の機会を得られた事は、何か目に見えぬ力が、働いていたのではないかとの思いすらする。通院の6年間は、父親と息子の絆を深める時間となった。

 父の臨終に際し、それまでの事々が脳裏をよぎった。生命が消え去り、宿る魂が、あの世に還る厳粛な瞬間を覚えている。今でも、ベットで目を瞑ると、子供の頃の父との触合いが思い出され、心が満たされる想いがする。此の父を持ったことは、自分にとって、最高の幸せであった。

 生前、培われた父親と息子の絆は、父親の死後にも切れる事は無い。自分の守護霊が父に替ったことを、霊能力ある知人女性から聞いた。ひと頃、彼女を通じ、父は稲荷社や仏壇の扱いに注文を付けてきた。発想が父そのものであった。間違いなく、あの世の父からの伝言だった。最近は、音沙汰がないが、全ての自分の行動や思考を見守っているのだろう。あの世は、魂の精緻な階層社会であると聞く。自分の死後、父に会えるかどうかは分からない。もし会えたら、「ありがとう」と感謝の念を伝えたいと思っている。

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