伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年10月8日: 我が第二の故郷 嬬恋村(その4) U.H

  群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、もう25年になる。私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。この日誌で過去3回にわたってそうした事柄について書いてきた。嬬恋村事始め、子供の幼稚園、山荘建設の経緯と嬬恋の謂われ、そして浅間焼けの記憶、等々である。今回は自分が味わっている嬬恋村の諸々について書いてみたい。

嬬恋村のあれこれ。

クマさんのこと。
「クマさん」といっても、落語に出てくる「ハッツアン、クマさん」の話ではない。ツキノワグマの熊にまつわる話である。嬬恋村村内をはじめとして、プリンスランド別荘地にも「熊出没、注意」という看板が、あちこちに立てられている。もともと嬬恋村や隣町・長野原町などの山林にはツキノワグマがたくさん生息していたようである。今は北軽井沢と呼ばれる地域に熊川という細流が流れているが、女優・岸田今日子さんの姉である童話作家・岸田衿子さんは永く北軽井沢の山荘に住んで著作を続けたが、北軽井沢での生活をつづった随筆に、眼下を流れる熊川に何匹ものツキノワグマが遊ぶ風景を描いておられる。里山が荒れることで自然界と人里の境界が怪しくなり、それにつれて熊が人里に出没するようになったといわれてすでに久しいが、最近の状況はやや異常である。

  新幹線・軽井沢駅の南側に、プリンスホテルが経営する一大ショッピングモールが出現して以来、軽井沢駅は従来の北口よりも南口が都会のように変貌した。週末ともなると、ショッピングモールを訪れる車列で大渋滞が起こるのは軽井沢の定番風物となっている。その南口で、電車通学から帰ってくる息子を迎えるために、母親が車を駐車場に置いて、今しも広場から駅舎に掛かろうとしたとき、なんと後ろから熊に襲われたのである。結果は、軽い怪我で済んだそうだが、白昼熊が出てきたその場所の異常さが大きな話題になった。

 さてこれから述べるクマの話は、もう少し鄙の地である嬬恋村の、今から30年位昔のことである。あるとき若い百姓夫婦が、赤子をつれて畑で農作業に勤しんでいたという。赤子は籐で編んだ籠の中に可愛い布団にくるまれて寝かされ、畑の脇に置かれていた。高原地帯の嬬恋村の春は遅く、畑を起こし畝を造るのは5月の初旬以降位のことであるが、その頃になると日差しがあれば空気も暖かくなり、のどかな田園風景が展開される。畝造りに夢中になっていた母親がつと振り向くと、なんとクマが赤子の寝ている籠をのぞき込んで臭いをかぐような動作をしているではないか。動転した母親は、わっと叫んで駆け寄るといきなり赤子の寝ている籠の上に覆い被さった。

 この経過で、もっとも驚いたのは当のクマ公であろう。逆上した母親が駆け込んできて、目の前に身を投げだしたのだから。思わぬ展開に興奮したクマは後ろから母親の後頭部を一撃して去っていったそうだ。クマの一撃を受けた母親は、後々まで後頭部に大きなハゲが残ったものの命に別状はなく、まずは無事であった。ところが、無事に済まなかったことが一つあった。クマが現れ母親が身をもって赤子を守ったそのとき、なんと父親はいちもくさんに逃げ出したのだそうだ。この夫婦は、嬬恋村の三原という集落で今も健在なのだが、一件以来、ことある毎に「あの人は、私と子供を見捨ててひとり逃げたのさ」と言われ、夫は妻に頭が上がらなくなったという。

戦後の開拓、そして「夏キャベツ日本一」へ
 戦後の開拓民入植嬬恋村から隣町・長野原町にかけての浅間山麓一帯には、古くから集落が営まれた鎌原、干俣、大笹などの地域がある一方で、不毛の原野として捨て置かれた広大な地域が存在した。それらのほとんどは浅間山の噴火に伴う火山礫に覆われており、重機のない時代には手つかずに捨て置かれていた。 しかし第二次世界大戦の敗戦の後、旧満州などの外地から引き揚げてくる同胞の中には、次男、三男の身の上で帰る故郷もない境遇の者が多く存在した。それらの引き揚げ者は、それまで手つかずであった原野に開拓者として入植するケースが数多く生じ、北軽井沢などの浅間山麓にも入植した。こうした戦後の入植では、引き揚げ者のみならず地元の次男、三男が開拓に加わる例も少なからず見られたという。

  旧満州における開拓村は、現地人がすでに耕作していた土地を政策的に安く買い上げて邦人を入植させたものであったが、敗戦後の引き揚げ者に宛がわれた土地はまさに不毛の原野であり、当初は電気も引かれていない土地に雨露をしのぐ小屋がけをしてひたすら開拓に従事した。まずは火山礫等の石や木の根などを取り除くところから始めて、初収穫までには多大な時間を要した。また水利もままならぬ地域であるうえ、標高が千mレベルであり、耕作は5月から10月までに限られた。かつ作付けできる作物も寒冷地向きのものに限られたため、この地で生活安定を得るまでには数十年の多大な年月を要した。

「夏キャベツ日本一」への道程
 今でこそ「夏キャベツ日本一」という実績を誇る嬬恋村であるが、ここまで来るまでの道筋は容易ではなかった。高原地帯であり、寒冷地帯である浅間高原で耕作可能な作物を模索する過程で、キャベツをという試みはかなり早い段階から検討されたようである。しかし当初は、市場までの流通手段が整っておらず、出荷がままならなかった。収穫したキャベツを木枠の箱状に入れて、当初は鉄道の貨物便、いわゆる「チッキ」で出荷した。貨物は操車場で日を要し、何日後に市場に届くのか定かでなく、キャベツはむなしく鮮度が落ちてしまった。東京都の革新知事であった美濃部知事が物価高騰に対処するため嬬恋村のキャベツを都民にというアプローチもあったが、いまだ流通等のインフラがなんとも整っていなかった。

 その後、高速道路の建設、広域農道の設置などに伴い、長距離トラック便が産地から市場まで直行するようになり、加えて専用段ボール箱の登場を得て、徐々にスムースな出荷が出来るようになるのだが、それでも豊作と価格下落のジレンマに苦しみ、価格暴落時にはせっかくのキャベツを畑に鋤き込むというような悲しい出来事も少なからず生じた。その頃は、「3年に一度順調に儲かれば良とする」というような不安定な経営状況が続いた。しかし東京市場と大阪市場の市況をリアルタイムに確認して出荷先を選ぶとか、冷蔵倉庫を建設して出荷調整を可能にするとか、さまざまな努力が実を結んで、今の「夏キャベツ日本一」にまで到達したのであった。

 今は「3年に一度」ではなく毎年安定的に儲かるので、昔のように冬季に出稼ぎに出る農家もなくなり「キャベツ御殿」と言われるような豪邸もそこここに出来ているこのごろである。一方で、あまりにキャベツの割がよいためキャベツにしがみつく結果を招き、年々キャベツが固くなるなどの連作障害が悩みに種になっているようだが、現在はいまだ模索中のようである。

 次回はシャクナゲ、アララギ園の献身と別荘産業について書いてみたい。(つづく)

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