伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年10月5日: 登山用品の今昔 GP生

 石井スポーツから、新宿にオープンした登山用品専門店「石井山専」のダイレクトメールが届いた。何枚ものパンフレットを眺めていたら、プリウス製ガスバーナーの写真が載っていた。プリウスの名前に懐かしさを覚え、ザック、トレッキングシューズ、シュラーフ、ウエア―等々の商品を眺めていたら、高齢者男女モデルが登山用品に身を固め、両手に二本のスティックを握っている姿が目に留まった。学生時代の山の装備と比べると、隔世の感が強く、まるで異次元の世界の様に思えた。

 かつての山の仲間達は、70歳を過ぎても、現役を続けている。彼らは、時代と共に進化してきた山のウエア―をまとい、最新の登山用品を駆使しているに相違ない。故あって、就職と同時に山と縁を切った身であっても、これ等用品を眺めていると、当時の記憶が蘇ってきた。

 ホェーブスはオーストリア製のコンロで、当時は高級品だった。当時の部の予算では手の届かぬ高嶺の花。燃料はガソリンで、高カロリーの上、どの様な低温下でも確実に着火出来た。当時の合宿で、主食の米は飯盒炊爨、副食は大鍋で調理した。火力は薪が主体だ。少々の雨でも火吹竹を使って火を起こした。火がつくまで傘で火種を覆い、根気よく息を吹きかける。一年先輩のEbさんは火おこしの名人で、肺活量6000tを誇った。北海道中央高地の合宿では、薪は這松しかない。一度火がつくと火力が強く、松油の為、悪天候でも燃え続ける優れものだが、着火性が悪いのと煙が多いことが難点だ。Ebさんは此の這松燃やしの名人だった。

 雨が強くなれば、名人と言えども火を起こせない。非常用に使ったのがラジウスだった。スェーデン製のコンロで、燃料は石油だ。テントの中で固形スープ用の湯を沸かした。食事は乾パン。テント住人5人から6人の米を焚く能力は無かった。あくまで非常用の調理器具だ。ラジウスは低温時の灯油の揮発性が悪く、着火には技術を要した。狭いテントの中で、雨に濡れた身体を仲間達地と寄せ合っている時、ラジウスの青白い炎と共に、ゴーと言う独特のバーナー音を聞くと、何とも言えぬ安堵感を覚えたものだ。現在のバーナーはカセットボンベ式だと言う。軽くて、高カロリー、取り扱いも容易と説明されていた。使い終わったボンベは、持って帰るのだろうか。

 パンフレットには色とりどりのザックが並んでいた。現在では、バックパックと言うらしい。基本は縦型で大小の違いと色の違いがある。物を入れ背負う機能より、色とりどりのデザイン性を競っている様に思える。機能より、見てくれが売れる要因なのだろう。かつてのザックは、キスリングだ。厚手の防水帆布製で極端に横広だった。両サイドにタッシュと呼んでいた、大きな収納部があり、取り出しやすい機能から、水筒や昼食、雨具、非常食等を入れておいた。タバコ、ライターもこの中だ。横広の為、肩から背中に密着し、重いザックでもバランスは取りやすかった。痩せ尾根の縦走でも、バランスの良さゆえ不安感は少なかった。ただ、崖っぷちの細道や樹木の多い道の場合には、タッシュの存在が邪魔になった。休憩時には、キスリングを背負ったまま、ドサッと仰向けに倒れることが出来た。

 バックパックなるザックは、見ているだけで楽しくなる。石井スポーツ店でも目にするが、一度も背負ったことが無い。構造から、腰で背負う感じになるのだろうか。後ろのチャック付の小物入れが、キスリングのタッシュに相当するのだろう。これだと、バックパックを降ろしてからでないと休息できない。一度仲間に使い勝手を聞いてみよう。

 当時の山仲間にとって、神田にある細野のキスリングが最高だった。自分は高校時代からのキスリングを使っていたが、やや縦長でバランスも悪く、背負い紐が交わる皮部分の下端が背骨を圧迫した。背中への密着性が悪く、長時間の使用では疲労感が大きかった。思い切って買った細野と、従来ザックとの機能性や疲労感の違いを、今でも覚えている。

 当時、仙台駅の北側にX橋と呼ばれた跨線橋があった。仙台駅を挟んで東西を結ぶ交通の要路で、仙塩街道に抜ける近道でもあった。此の跨線橋の袂に、教育センタ―と呼ばれた店があった。当時の仙台で唯一と言える登山道具の販売店だ。昭和30年代の半ばの事だ。ワンゲルの新人はシュラーフやキャラバンシューズをここで買った。キャラバンシューズは藤倉製、シュラーフは米軍放出品だ。朝鮮戦争時代、米兵の遺体を包んだものとの説もあった。何年かして、日本製の物も出てきたが、当時の仙台ではこれしかなかった。安いこと、温かいこと、米兵御用達だから、サイズが大きくゆったり寝られることが利点だ。

 自分はここで買ったシュラーフを卒業まで使った。卒業の年、瀬峰寮の火事で山の道具を全て焼失したが、卒論の追い込みで研究室に泊まり込むためシュラーフを持ち込んでいたので、焼失は免れた。これも、結婚してから、高校、大学と共にしたナップザックと一緒に、家人に処分された。家人には薄汚れた雑物にしか見えないのは、当然のことだ。これで、自分の山道具は全て消え去った。

 パンフレットには軽快で、使い勝手のよさそうなテントが並んでいた。2人用雪山テントの重量が1,350gとある。非常用のツエルトが僅か245gだ。信じられないほどの軽さだ。パンフレットにはないが、5,6人用でも3s程度だろう。自分が入部した時の5,6人テントはゴワゴワのカンバス製。防水も定期的にかけ直した。畳んでもかなりの大きさで、勿論キスリングの中には入らない。パッキングを終えたザックの上に括り付けて運搬する。乾燥時はまだしも、雨天後はたたみにくいし、十分吸い込んだ雨水で、キスリングは肩に食い込んだ。

 2年の冬に茶道部の部室から出火し、貰い火でワンゲルの部室も半焼した。テントは全て修理は不能だ。新入生歓迎登山にはかなりの数のテントを要する。如何するか、TG君を始め同期の仲間達と相談し、あこがれの細野のテントを購入する決断をした。当然、金は無い。注文して納品までには時間がある。当時のワンゲル部長、法学部のSu教授にお願いし、必ず支払う旨の保証書を書いてもらった。TG君と二人で上京し、交渉した結果、細野は快諾してくれた。当時は、大学教授のお墨付を信頼してもらえる世の中だった。

 無事テントが納入されたが、支払いを如何するかが大問題だった。資金集めのため、ダンスパーティーを仙台市のレジャーセンターを借りて開いた。商才に長け、マネージメント能力抜群のIk君の働きは目覚ましかった。パーティー券の売りさばきには、女子大生のコネクションに滅法強いOk君の働きも抜群だった。ワンゲルのチームワークで集めた資金で支払いは完了した。入部料500円の新入生勧誘にも、部の総力をあげた。後で、焼け太りと陰口をたたかれたが。  資金集めの中心人物たるIk君は、既にこの世にいない。

 パンフレットには目的に応じた登山用ウエア―が並んでいる。至れり尽くせりで、使用者にとっては選択するだけだ。パンフレットを見ると、軽く暖かく、通気性が良く、デザインもかっての山ウエア―とは雲泥の差だ。当時、山用ウエア―はウィンドヤッケ位だ。今では、多分死語だろう。当時は、ズボンも下着も防寒着も全て日常品を活用した。長袖のシャツはワンゲルオリジナルで、保温性や通気性の良い優れ物だった。グリーンの袖に、部のワッペン[TUWV」が縫い付けてあった。此のシャツはTG君の発案だ。50年以上経過した現在の部員が、どの様なシャツを着ているかは知らない。

 上着は使い古したジャケットを用いた。羊毛製であれば寒冷期の保温性や濡れた場合の体温低下を防ぐ効果がある。供給源は古着屋だ。寒冷期の下着は、羊毛のセーターを直に着た。幾ら汗をかいても、身体を冷やすことが無い。現在の様なオーバーズボンが無い当時は、羊毛製のズボン下を肌身に着けた。ウィンドヤッケは稜線での風雨が強い時等に着用した。通常は非常用衣類としてタッシュの底にビニールで包んで詰め込んでおいた。亡きTo君の口癖は「ヤッケは、死ぬか生きるかの時以外、着るものではない」だった。雨の時はポンチョを利用した。これも米軍放出品だ。軍用ポンチョは大きく、キスリングを含む身体を包んで余りあった。小雨の時は傘を使った。通常はキスリングの上部に横ざしにしていた。今は、山で傘など使うのだろうか。

 高度成長期以前の仙台では、季節に応じて、登る山の環境に応じて、それぞれが服装・装備を工夫するのが当然であった。この心構えが有った故、登山中に激変する気象状況に対応できたのだと思う。新聞紙上を賑わす遭難原因の根底に、お金を払えば、必要な登山用品が苦労せず手に入る安直性があるのかもしれない。商品を選択する時、デザイン、色彩、見栄え等、本来の山歩きにに不要な要素を排除し、機能本位で選ぶ事は難しいからだ。容易にに登山用品を入手出来ることが、山に対しても安易な気持ちを抱くことに、繋がらなければ良いのだが。

 新宿「石井山専」のパンフレットは、大型三枚にも及ぶ。それだけ、需用があるのだろう。男女のモデルは80歳近いの外人高齢者だ。自分の所に送ってくるくらいだから、高齢者も重要な対象なのだろう。パンフレットを見ていると、石井山専でこれ等の装備を購入すれば、誰でも簡単に山歩きが出来るとさえ思える。

 山の仲間達は、名実ともに山の超ベテランだ。学生時代と違って、経済力も豊かで、必要な装備の入手も随意だ。昔との相違は、老化による体力の低下だ。最高の装備が、低下した体力をカバーしてくれれば良いのだが。若い時の体力は忘れて、現在の力に応じた山歩きを、楽しんでもらいたいと思っている。

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