伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年9月23日: 人にとって帰る場所とは GP生

 先日、家人が全自動掃除機iロボット・ルンバを買ってきた。購入した理由は家電量販店での特別セールで、考えられないような安値で売られていただけではない。リビング・ダイニングの掃除は長年自分の担当になっているが、掃除は5分と掛からないで終わらせている。その雑な掃除に愛想を尽かしたのが購入動機の様だ。ルンバをセットしておくと、毎日決まった時間に作動開始し、40分近くかけて部屋中を万遍なく動き回り、目には見えない微細なゴミまで回収する。掃除が終了したり、電気残量が少なくなると、ドックと称する充電器の発する電波に誘導されて、一目散に戻った行く。ルンバにとっての帰る場所は極めて明瞭だ。

 テレビの刑事ドラマ「ハンチョウ 神南署安積班」はお気に入りの番組の一つだ。毎週、再放送を含め録画している。先日の「ハンチョウ」で、事件解決後のハンチョウのセリフ、「お前の帰る場所は?」が何故か心に残った。このドラマは、佐々木蔵之介演ずるハンチョウを中心とした刑事達の群像劇だ。勿論、被害者や加害者及び彼らの家族も一翼を構成している。人は如何に生きるか、何のために生きているのかが、ドラマのテーマになっている。ドラマのサブテーマとして、「人の帰る場所」が問いかけられていた。安積班の刑事達にとって帰る場所は、神南署安積班だが、ドラマでの犯人や被害者達の帰る場所は千差万別だ。

 自分の事を考えてみると、学生時代は極めて明瞭だった。学校内での帰る場所は「ワンゲルの部室」であり、学校を出れば「下宿」や「瀬峰寮」であった。短期間の帰る場所として「実家」があった。何れの場にも、親しい人や仲間が居た。「帰る場所」と言えば、卒業する年の春の記憶が、未だ心に残っている。

 山の仲間でもあり、かって同じ下宿の隣部屋の住人でもあったTa君が人妻と深い仲となり、学業と生活が乱れ卒業不可となった。金を使い果たし無一文となったTa君を説得して、親元の駅までの切符を買って列車に乗せたことがある。彼が実家に帰ったことは間違いない。これがTa君との別れであった。それ以降彼との音信は途絶えた。今も、何処で何をしているのかは判らない。生死の別も分からない。Ta君を実家に帰すべく一緒に説得し、割り勘で旅費を負担した山の仲間のIk君は、10年以上前にこの世を去った。

 今の自分にとって帰る場所はと問われれば、「家人と犬三匹が居住する家庭」と答える事になる。震災被害者の仮設住宅は、文字通り仮の住まいであり、真に帰る場所はそこではない。福島第一周囲の避難民にとっては、帰るべき場所に何時戻れるのか分からない不安な日々を送っている。不条理なことが絶えないのがこの世だとしても、あまりにも過酷なことが多すぎる。

 大阪桜宮高校バスケット部キャプテンは、この世に自らの帰る場所を見つけることが出来きず、あの世に居場所を求めて命を絶った。人格形成期の学生を指導する立場の教師が、教え子を生きる事に絶望させた責任は極めて重い。キャプテンとしての未熟を矯正するとの理由で、暴力を受け続けた高校生には、この世に帰る場所は本当に無かったのだろうか。追い詰められた若者の心情を、大人の心で忖度することは出来ない。それでも、もう少し強くあってほしかったと願うのは自分だけだろうか。彼にとって、帰る場所があの世で有るはずがないからだ。

 自分もかって瀬峰寮で苦楽を共にし、人生や恋愛を語った二人の友を失った。二人とも自ら命を絶っている。共に家庭を持ち子供もいた。それでも彼等は、この世で帰る場所は無いと思い詰めたのだろうか。特に仲の良かったMi君は、純粋な魂と正義感を持ち、心の在り方に重きを置く男だった。風体、服装をあまり気にしない性向は自分と同じで、年齢差もあり、周囲から兄弟かと冷やかされたことも有った。真に、肝胆相照らす仲だった。

 彼は卒業後、北海道の鉱山に就職した。暫くして退職し、出版関係の仕事に就いたことを知った。自分は離島の鉱山に就職したため、卒業後数えるほどしか会えなかった。自分の就職場所が東京であれば、彼の悩みを聞ける機会もあったろうし、何らかの手助けは可能だったかもしれない。 あの歳でのMi君が帰る場所が、あの世では無いはずだ。9年後、自分が東京に転勤になった時には、Mi君は既にこの世には居なかった。彼を失ったことは、この年になっても慚愧に堪えない想いでいる。

 土曜、日曜にスポーツジムのプールで一緒になる70代の小柄な女性がいる。水中歩行を楽しみながら、毎回「お互い、今週も会いましたね」との挨拶を交わしている。彼女は東京の郊外で特別養護老人ホームを経営している。彼女の明るい闊達な話っぷりは、自分の心を温かくしてくれる。彼女のホームでは107歳を最年長にして、約100人近い老人を預かっているそうだ。入居の事情は100人100様であると言う。けれど「私達の最後の場所がここになる」とは全ての老人達の言であるそうだ。 老人達全てが妻子、子供、孫達が居ない孤独者ではない筈だ。この世での終の棲家が特別養護老人ホームである事に、入居者達はどの様な思いで過ごしているのだろうか。同年輩者として他人事でない思いだ。 認知症が進行して、自分が誰であるかもわからない老人も多いそうだ。悩みからの安全圏に入り込めた老人達は、幸せなのかもしれない。

 この世では財力があり、その上、社会的名声があれば快適な生活は保障される。それを目指して死に物狂いの努力をする人達が居る。しかし、やりすぎれば、先の事件にみられるように、夫婦そろって殺害され地面深く埋められる事態に至る。逆恨みにしても、人の怨念と欲望は際限がない。被害者も加害者も最後に帰る場所は、何れもが望まない所となった。

 この事件を知って、中高時代の「心力歌」の一節が自然に頭に浮かんで来た。「内なる宝をよそにして、人は形ある宝を求む。求るところいよいよ多く、失うところ益々繁し。みずからなえる迷いの縄に、身を繋ぎまた心を繋ぐ。徳無くば堅城に居るも、堅城は身を守るに足らず。心虚しくば錦衣を着くるも、錦衣は身を飾るに足らず。権勢はただ悩みをまし、富貴はただ、煩いをなす。かくて相競ひ相争うも、ただこれ空しき夢ならずや。」心力歌の一節は、目に見える物のみを追い求める事の虚しさを教えている。 この世で生きるための財貨、住まい、衣食は誰にでも必要だ。それのみを人生の目的としたら、際限のない欲望の渦に翻弄され、気が付いた時には虚しさしか残らない事になろう。豪邸に居住しても、帰る家に迎える人が誰一人いないとすれば、特養ホーム住人の方が恵まれていると思えるだろう。人が帰る場所には、心が通じる人の存在が不可欠だ。 独居老人の置かれた立場は、高齢者にとって他人事ではない。

 人にとって、この世は仮の住まいであるのかもしれない。この世での人の一生を想えば、人の帰る場所が時々で替わる事は当然であろう。自らの肉体がこの世での使命を終える場所が終の棲家となる。 けれど、人の本体である魂の帰る場所は、この世ではなく、あの世の何処かである。自分が知る限りでは、あの世は精緻な魂の階層社会であると聞く。 生前の社会的地位・肩書き、財産、名声は一切関係なく、この世での役割を終えた時の魂のレベルが、帰るべきの場所を決める事になるそうだ。 あの世に持って行けるのは、この世で修行した魂だけしかないからだ。

 人がこの世を去る時には、生前、魂の仲間達と約束した、この世での目的が果されたか否かも評価の対象となるそうだ。人は誕生と同時に潜在意識に隠れた目的を試行錯誤を繰り返しながら探し求める事になる。例え、本来の目的でないにしても、生きる目標が定めなければ、この世での漂流が始まるだろう。

この世に生まれたことを嘆き、環境を恨み、目標を喪失すれば、絶望から命を絶っ事になる。如何なる理由があろうと、この世での苦しみから逃れる為に、命を絶つ者の行く先に、救いは待っていない。更なる苦しみに苛まれる世界に放り込まれるだけだ。自殺こそ、人にとっての大きな罪悪であることを知らなければならない。 瀬峰寮の二人の友の魂は、今何処で、如何しているだろうか。何故、この世で生きる頑張りをしてくれなかったのだろうか。若き昔、彼等と寝食を共にした仲間として残念でならない。

 人生の終焉が遠からぬ事を察する年齢に近づくと、自らが帰る場所が何処となるのか気になることも有る。 自分が如何なる目標を以てこの世に生まれたかも自覚できなくとも、日々、生ずる課題に対処せざるを得ない。生きることで、生ずる悩みが尽きないからだ。目前の課題を一つ一つこなしていくしかない。 その繰り返しの中で、自分の真の目的を知ることが出来れば僥倖だが難しいことだ。残り少ない人生に悔いだけは残したくない思いで日々を過ごしている。

 神南署安積班の刑事達の口癖は「事件の解決は、一つ一つの事実の積み重ねの先にある」だ。悩み考えながら、毎日を生きる積み重ねの先に、自分の帰る場所が決まるのだろう。しかし、掃除ロボット・ルンバの如く、生涯、決まった場所にしか帰る場所が無いとしたら、高齢者と言えども少し寂しい。安定を求めながら、ささやかな変化も求める事は、贅沢な事なのだろうか。

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