伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年9月20日: 老老介護の覚悟 GP生

 先日の新聞に哀しい事件が載っていた。79歳の夫が75歳の妻を殺害し、自分も死ぬつもりで隅田川に飛び込んだが、死にきれずに助けられたとの記事だ。妻から何度も「殺してほしい」と頼まれ、くも膜下出血の後遺症で足が不自由になった妻の介護に疲れた夫が、将来を悲観しての、いわば心中であったようだ。夫は生き残り、妻の介護から解放されたが、自らの行為を悔いる、辛い生涯が待っている。飛び込んだ場所は、夫と妻の思い出の地とあった。胸が塞がれる思いの事件だ。高齢者夫婦 なら、誰でも他人事とは思えないだろう。如何なる夫婦でも、加齢の進行と共に訪れるかもしれない、介護生活を考えるからだ。

 記事では、平成20年以降、老老介護世帯での殺人事件が毎年14件から21件も生じていることを報じていた。これほどの数とは思わなかった。65歳以上同士で介護し合っている人の割合は45.9%、75歳以上では25.5%であるとも報じている。60代での介護は心身ともにまだ許容範囲と思うが、75歳以上では余程の好条件、好環境でなければ、限界を超えている。この数字通りなら、老老介護で苦しむ人たちは更に増える事だろう。

 介護される方の頭脳が正常であれば、苦労を掛けている連れ合いに対して、申し訳ない気持を抱くことは確かだ。事件の妻が苦しむ夫を見て、私さえ居なくなればと思い、「殺してほしい」との気持ちになっのかもしれない。自分が母親の介護をしたのは60代前半であった。母親は認知症が進行していたので、自分の事にしか関心が無かった。介護する息子への下手な気遣いが無いことは、自分にとって心的負担の低減になった。自分は、深く考える事を避け、日常すべき事を坦々とこなす様に努力した。あの時はまだ若かった。もし現在、同じ状況に置かれたら、自信はない。

 先日、厚生労働省から「2013年日本人の平均寿命」が発表された。男性 79.59歳、女性86.35歳で、女性は世界一だそうだ。女性の方が6歳以上長寿だ。日本人の寿命がこれほど延びたのは、何時頃からか記憶にない。恐らく高度成長期以降だろう。それ以前の時代では、60歳を超えれば完全に老人扱いだ。この時代で、老老介護の話を聞いたことが無い。現代の感覚であれば、若くしてこの世を去る人が多かったし、年寄りの介護は家族全体で行う風潮が、まだ健在だったからだろう。

 老老介護の問題には、日本人の長寿が根底にある。誰にとっても長寿は好ましいものだし、人が長寿を望むのは当然のことだ。新聞記事には専門家の意見として「社会全体で対策に本腰を入れなければ、悲惨な事例が繰り返される」と、警鐘を鳴らしている。もっともだと思うが、どの様に社会全体か取り組めば良いかへの具体的提案は無い。長寿は社会保障費の増加を促し、働けない高齢者の増加は、社会の活力に陰を落とすことになる。個人にとっての長寿は目出度いが、社会全体としては深刻な問題だ。

 戦前の家族制度が完全に崩壊し、夫婦と子供達が家庭の基本単位となった。子供がいない家庭もあるし、成長した子供は結婚しても親とは同居せず、別居することが当然の現在では、老齢化した親を支えるシステムは、家庭内に存在しない。

 今回の事件でも、ヘルパーさんが出入りしていたし、娘さんが週一回様子を見に来ていた。娘さんは自分で出来る精一杯の努力をしたと思う。彼女達は介護作業の肩代わりは出来ても、老夫婦の苦悩までは代行出来ない。だから、両親の覚悟を察することは出来なかった。親はどんなに苦しくとも、その思いを子供達の肩に載せる事をためらうものだ。もし、誰かが24時間、生活を共にし、夫の苦しみと妻の悩みを共有できたとしたら、今回の悲劇は起こらなかったのではと想像する。

 介護施設に入居させれば良かったのにとの意見もあると思う。近隣の知人の何人かが施設を利用しているが、3ヶ月に一回の割り合いで施設を転々としている。しかも、1ヶ月の支払いは、平均世帯の月間費用に近い。安い施設は待機者が多く、おいそれと入居は出来ない。国や地方自治体で施設を造れば、社会全体で面倒を見もる事にはなるが、今後生じるであろう高齢者の数を考えるれば限度がある。

 ジムのプールで水中歩行している高齢者は多い。先日も70代後半の女性と歩きながら話をした。彼女は、ご主人を10年前に前立腺ガンで亡くなくしている。現在は息子さん達と一緒に生活をしていて、定期的にプールで歩いている。気さくな女性で、他の高齢者との会話を楽しんでいる。もう一人の85歳の女性は、週2回のプールだ。広い屋敷に独り暮らしで、近くに住む息子さん夫婦が、頻繁に訪ねて来る。ご主人はかなり前に亡くなられたと聞いた。これ等の女性達は年齢を聞くまでは、もっと若いと思っていた。この二人の元気な女性は、子供達に大きな苦労を掛けないで、人生を全うするように思える。早くして亡くなった彼女達の夫は、妻達に幸せな老後を残したのかもしれない。

 小学校のクラス会に、出席する女性達の半数が独り身だ。皆、溌剌としている。話を聞いてみると、夫の介護、看病に苦労をしたと口を揃えるが、比較的若い時の苦労で、なんだか、懐かしがっている様子だ。独りの生活は寂しさもあるようだが、息子や娘、孫の話をするときは生き生きとしている。結婚し子供を産み、苦労はしただろうが、自ら育んだ家族が、今の安定に繋がっている様に思える。全て、彼女達の努力の賜物だ。 日本人の平均寿命が発表されてから、テレビで元気な高齢者を特集していた。80代の女性の腕立て伏せや90代の男性のストレッチ姿などを放映していた。テレビの高齢者達は、長寿遺伝子を親から受け継いだかもしれないが、あの年齢で運動が出来る事は、若い時から自分の健康に気を使ってきたに違いない。自分の山の仲間達も、若い時から現在まで、機会を作っては山を歩いている。皆元気だ。足腰が立つ限り、これからも、彼等は歩き続けるだろう。

 人は、どんなに健康に気を遣い努力しても、何れ身体に不調を来したり、病に倒れる事は避けられない。この世での最後が近づくことも有るだろう。高齢となった夫婦が揃って、健康で医者や薬と縁のない生活を続けることは難しい。何時、介護者と被介護者の立場に分かれるかもしれない。社会全体で対策を立てる夢に付き合う訳にはいかない。高齢者夫婦にとっては、今そこにある現実だ。

 先の事件で、妻の首には「弱い力で、ゆっくりと圧迫した」痕跡が残されていたそうだ。事に及んでも、妻に対する夫の優しさは、更なる悲しみを誘う。この時の夫は、如何なる思いで居たのだろう。要介護の高齢者夫婦が、孤立感の中で、逃げ道が見えなくなってしまったらお終いだ。この辺の機微は外部からは窺い知れない。

 まだ、お互いに元気な内に、いかに対処するかを家族で話し合うことが出発点であると思う。社会の力を一部借りるにしても、結局は、それぞれの家族で対処するしかないのだから。話し合える家族がある高齢者は幸せかもしれない。その様な家族も、夫婦自ら築きあげた結果だ。人が生きてきた証が、老後に集大成として試されることになる。助ける家族や、相談する子供達も居ない高齢者夫婦も多いだろう。高齢期を生きる如何なる夫婦でも、小病はしても大病をしない努力が必要だ。その為には、夫婦揃って知恵を絞り、信じる方法を実行するしかない。

 中村仁一先生の著書「大往生したけりゃ 医療とかかわるな−−自然死のすすめ」にある様に、人は自分の全細胞を使い切った時に、自然死が訪れる。苦しみのない、大往生だ。これが出来れば、死者は安らかにあの世に旅立ち、残された家族は長い介護の苦しみを味わうことは無くなる。

 先の見えない介護は、長年連添った夫婦であっても、生きる意欲を共に失いがちになろう。お互いこの世に生を受け、縁あって結婚し、長年にわたって夫婦として生活を共にしてきたことは、前世での縁の結果であるのかもしれない。如何に苦しくとも、辛くとも、この世で後悔を残して死を迎えないために、生きる努力が大事と思っている。人生がこの世だけのものなら、新聞記事の老夫婦の様な決断も有りかもしれない。しかし、人の魂は死して後、時を経て再びこの世に生まれる存在だ。高齢者夫婦にとって、この世での事は、逃れる事の出来ない自己責任の世界であると考え、現世を生きる覚悟を持たなければならないのだろう。

目次に戻る