伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2013年8月16日: 前立腺ガン患者の日常 GP生

 7月30日の日誌の続きである。男性ホルモンを遮断して、ガン細胞を兵糧攻めにする治療が始まって1ヶ月以上が過ぎた。治療の結果、48有ったPSA値が6を下回った。「想定通りの結果だ。ガン細胞の活動停止や死滅が始まっている」と医者は言う。現在、名実ともにガン患者であることは間違いないが、自分が「患者」であることに実感が持てないでいる。

 最大の理由は前立腺ガンの自覚症状が無いことだ。そもそも、前立腺ガンが発覚したのは血尿を契機としていた。血尿の激しさから、前立腺のトラブルは想定していなかった。色々調べても、自分が経験した様な激しい血尿は、初期のガン患者には見られない。CT検査、触診、内視鏡検査いずれも陰性だった。PSA値が高いことから、生検により前立腺ガンだと判明した経緯がある。前立腺ガンは、初期では自覚症状が無いのがと特徴だと言われればそれまでだが。

 前立腺ガンによる身体異常は感じなかったが、検査で過ごした1ヶ月半の方が、日常生活は安定しなかった。心的には、自分の身体に生じたトラブルの具体が分からない事で、如何に対処すべきかの覚悟が出来ない事にあった。異常無しの結果はベストだが、あれだけの血尿が出ている以上、それは無理だ。最悪は父親と同じ腎臓病、次いで前立腺ガンを考えた。前立腺肥大ならラッキーだ。トラブル臓器と状態が分かれば、医者の治療と並行して対処する手段は必ずある。人体機能の深遠を考えれば、医者が行う対処療法だけでは限度があるからだ。しかし、対象が分からなければ手の施しようがない。

 身体的には、検査によるダメージの大きさだ。直腸から12本の針を前立腺に刺し、細胞サンプルを採取する生検を行った。生検による尿中の出血は3日で止まったが、直腸粘膜と前立腺には直径1.5mmの針孔が12本開いた。その部分の細胞組織はズタズタになっている筈だ。幸い予防措置が功を奏して、細菌感染は免れた。傷ついた組織が復旧するのにかなりの日数を要しただろう。更に、線量による影響だ。下腹部にCTを計6回、生検の事前確認のために胸部と腹部のレントゲンをそれぞれ1回、全身骨シンチグラフィー検査でのガンマ―線照射20分だ。これ等線量は1ヶ月半の間に集中した。X線が嫌で老人健診を避けてきたのに、何年分もの線量を浴びた。皮肉なものだ。特に骨シンチの検査後は、3日ほど体調不良で寝たり起きたりしていた。

 体調不良を起こしていた遠因に、利尿剤の服用がある。血尿で最初に訪れた泌尿器医院でのエコーの結果、前立腺が、かなり肥大していると言われた。70歳を過ぎてから、排尿回数の増加と尿切れの悪さを自覚していたので、前立腺肥大は当然と思えた。医者は前立腺による尿道圧迫を改善する薬として、ハルナールD錠を処方してくれた。朝食後一錠、毎日服用した。この薬により残尿感は幾らか緩和された印象は持つたが、排尿回数が減少した感じは無かった。1ヶ月近く経った頃だろうか、身体を動かした時に、所謂キレが悪くなったのを感じた。何をするのも億劫で、血尿が止まってからのプールでの水中歩行でも身体が重く思えた。そこで、薬を飲んでいる時の排尿回数と、10日間薬を止めての排尿回数とを記録し比較した。±1の範囲で、有意差は認められなかった。慈恵医大の医者に話したら、止めて結構だと言われた。開業医は一生飲む薬だと言っていたのだ。

 前立腺の平滑筋は下垂体から分泌される神経伝達物質ノルアドレナリンにより収縮する。ハルナールはこの伝達物質の受容体に作用して、結合を妨げる事で平滑筋の収縮を妨げる。受容体にはいくつかの種類が有り、前立腺に高分布しているのがα1Aと呼ばれている受容体だ。これは身体の他の筋肉にも存在しているはずで、ハルナールはこれ等の働きをブロックする事になる。何となく感じる身体の重さはその為と考えた。薬を止め、暫くして、身体感覚は元に回復した。薬の効能ではっきりしているのは副作用だけだ。

 治療はホルモン療法のみだ。1ヶ月に一度の皮下注射と毎朝食後の錠剤だ。皮下注射は精嚢でのホルモン産生を抑制し、錠剤は副腎で産生された男性ホルモンの前立腺への受容を妨げる。副作用は勿論ある。一般的には、ムーンフェイスと身体のほてりだ。男性ホルモン低下による影響でこれは避けられない。説明書の副作用の欄を見ると、恐ろしい病が並んでいる。最近、家人に顔が丸くなってきたと言われた。

 ようやく日常が安定してきた。毎日午前中のプールでの水中歩行も復活している。家庭内の作業や管理上の仕事も以前に近い形でする様にしている。先日、ビルの屋上での30分間の工事の立会で、猛暑にやられ激しい血尿が出た。集中した事務仕事後にも薄い血尿に見舞われた。身体的過負荷は厳に慎まなければならない様だ。身体への過負荷による血尿と前立腺ガンの関係を医者に聞いたが、明快な解答は無かった。

 昔から、庭の片隅に鎮座する稲荷社の前に、モチの大木がある。植木好きであった祖父の唯一の形見で、我が家の守護木だ。生命力が強く、2,3年手入れをしないと枝が勝手に伸びて、辺りの採光を遮ることになる。見兼ねて、先日枝をおろした。梯子をかけ、よじ登り、枝に命綱のフックをかけて身体を支え、専用鋸で枝を切断した。初日は30分、次の日20分、最後の仕上げに10分と3日がかりだ。以前なら一挙にする仕事だが、自重した。枝を下ろす事より、切った枝の処理の方が遥かに大変だ。自分でしたいのは山々だが、この作業は、日頃マンションの清掃を依頼している知り合いに請け負ってもらった。体調良好な現在、自分の日常行動を抑制する努力が必要なようだ。

 遺伝的要因があったとはいえ、自分の身体にガンが発症したのは、免疫に手抜かりが有ったからに他ならない。栄養条件は長年に亘り配慮してきたつもりでも、この世で生きる上でのストレスは避けられない。父の死後20年間に生じた諸問題はストレッサ―として、身体上の弱点を蝕んでいたのだろう。現在でも、生活上の諸状況を想えば、ストレスは避けられない。それに加齢が後押しをする。免疫力低下に対処するには、自分の日常生活を再点検し、免疫力を低下させない方法を考えて実行するしかない。

 2ヶ月近く前から、鍼治療に通っている。我が家から徒歩1分の近場で開業している60代前半の鍼灸師は、縁あって25年来の付き合いだ。鍼灸の腕は一級品である。前立腺ガンである事と、今後3年に亘る治療方針を話した。治療による身体へのダメージの回復と免疫力向上を依頼した。現在、40分かけて身体の表と裏に、約30本の針を打っている。基本は腎経への治療で、次いで下腹部への血流の増加、老廃物の排除促進への処置で対応してくれている。家に帰ると身体に軽いダルさを感じる。鍼が利いている証拠だ。家のベットで 30分間横になっている。最近の体調の良さには、間違いなく、鍼が貢献している。鍼灸師が、身体状況に応じて柔軟に対応してくれるのは心強い限りだ。週2回の通院はこれからも続くだろう。

 免疫力安定の為、免疫ミルクを飲み始めた。発祥はニュージーランドで、開発者の名前を取って、スターリーミルクとも呼ばれている。乳牛に不活性化した菌26種を摂取し、牛が体内で作った抗体が、ミルクに濃縮されるのを利用している。脱脂粉乳として製品化されているので、高タンパク食でもある。一袋20グラム中、7.7gのタンパク質を含有する。家人はこれを長期に食し、杉、檜花粉症を完全に克服した。自己免疫疾患にも効果があることは立証されている。前立腺ガンに直接の効果は期待はできない。あくまで、加齢による免疫の乱れを少しでも改善できればとの思いからだ。

 免疫力の主体となる腸管に対する栄養条件を考え直した。従来飲んでいたヨーグルトは乳脂肪の割合が高いので止め、ヤクルトと豆乳の混合液に替えた。イソフラボンは女性ホルモンに似た作用を有するそうだ。腸内細菌は免疫力に大きな影響を与える。これの活性化のために食物繊維の摂取の増加を試みている。朝食に、シリアルを加えたことだ。加える牛乳は低脂肪・高タンパクの物を用いている。これ等の結果、高すぎる体脂肪低下への貢献も期待している。

 高濃度ビタミンCの点滴が、ガン細胞を殺すことがアメリカで実証され、日本でもこれを実施する病院が増えてきた。保険適用外の為、治療費は高額となる。大量のビタミンCを飲んでも、腸での吸収に限度があるため、ガン細胞を確実に殺すだけの体内濃度を保てない。けれど、最近の研究や経験から、一日5g以上のビタミンCの服用が、ガン細胞の抑制に多少の効果があることが分かってきた。積極的に勧めている泌尿器の医者も居る。高濃度ビタミンC療法の実施は、放射線治療の進展での検討となる。

 自分は何年にも亘り、1日5gのビタミンCを摂取してきた。朝食時に2g、昼食時に2g、夕食時に1gだ。特定のビタミンの大量単独摂取を、故三石巌先生は厳に戒めている。自分はビタミンCとビタミンB群の混合物を用いる。従来の摂取に加えて、就寝前1時間に3gを免疫ミルクと一緒に飲んでいる。就寝中に行われる免疫力回復のための材料を供給することが目的だ。後は継続の努力のみだ。

 就寝時間は血尿以前に比べて、1時間以上早くなった。良質の睡眠は免疫力の低下防止の有力の手段だ。焼酎の力は借りていない。以前は、毎晩飲んでいた焼酎は、今後3年間の封印を決めた。血尿トラブル以前に買って置いた麦焼酎「陶山」の一升瓶は、側に置くと悩みの種になるので、酒好きの友人に飲んでもらった。断酒をして3ヶ月以上が過ぎ、焼酎の味も忘れつつある。

 朝食後の錠剤服用は必須事項だが、長期に亘って薬を飲む習慣が身につていない自分にとって、神経を使う大事だ。薬を飲むのを忘れるからだ。先月は3錠余ってしまった。薬の性質上、毎日一定時間に飲む必要がある。医者は、日常生活は今まで通りで、血尿時以外は、アルコールは可と言うが、断酒を決めた以上は実行あるのみだ。如何なる因縁因果があったかは分からないにしても、この現状を素直に受け入れ、試行錯誤しながら、新たな日常を確立するしかないと思っている。治療や日常の努力が奏功し、3年後に、大団円を迎えられれば良いのだが。その時は、是非「陶山」で祝いたいと思っている。

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