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2013年7月12日: 我が第二の故郷 嬬恋村その3 U.H

 群馬県吾妻郡嬬恋村のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、間もなく25年になる。旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。前の日誌で、嬬恋村との馴れ初め、子供の幼稚園、山荘建設、嬬恋の謂われ、などについて書いた。その続きである。

浅間焼けの記憶ー別荘地は溶岩台地の上

 我が家の山荘があるプリンスランド別荘地は、浅間山の火口から8キロほど北に下った標高1,100m辺りにあるが、地表は浅間山噴火に伴って流れた溶岩の岩盤に覆われている。スコップなどで穴を掘ろうとしても、10センチも掘らないうちにガチンと岩に突き当たりおそらくツルハシでも容易に掘れない堅さである。したがって樹木も根を深く伸ばすことが出来ず、平たい丸皿のように水平方向に張っているため、大風が吹くと丸皿状の根ごとドウと倒れてしまう。

 当初、我が敷地内の中央に溶岩が固まって出来たと思われる高さ4mほど、20〜30坪位の巨岩が鎮座していた。そのままでは建築に差しつかえるので、地上に露出している岩裾の半分ほどを重機で欠いてもらい、その上に基礎になるコンクリートの柱を立てて、建物を乗せたのだが、それでも二階建建物の東側の窓にひび割れ苔むした巨岩が迫っている。こうした溶岩の巨岩は別荘地のそこここにあるのだが、これらはかの「天明の大噴火」の置きみやげなのである。

天明の大噴火

  江戸時代中期に起きたこの地における大事件は浅間山の「天明の大噴火」である。浅間山は桜島とならぶ我が国でも屈指のエネルギーを持った活火山であり、太古の昔より幾度も大噴火をしてきたことが地層に残る爪痕に記されている。そして「天明の大噴火」は今の世に生々しくも痛ましい傷跡を伝えている。天明3年(1783年)4月上旬に、半世紀ぶりの浅間山の噴火があった。その後火山活動は日増しに激しくなったが、7月に入ると煙の中に稲妻のような光が混じるようになり、昼間でも火炎が昇る激しさとなった。あまりの様相に、近隣の諸大名が毎日家来に様子を見に来させていたという。また信州側の追分、沓掛(現在の中軽井沢)辺りでは知り合いを頼って老人や女子供を疎開させるありさまであった。

 7月8日(新暦8月5日)、大噴火が起こり北麓の群馬県側へ水を含んだ1,200度以上の溶岩泥流が押し出し、斜面を流れ下って吾妻川やその支流に流れ込んだ。勢いづいた泥流の流れは岸の上までせりあがり、川沿いにある村々を飲み込みつつやがて利根川を前橋辺りまで流れたという。前橋、伊勢崎付近の川幅が広くなったところには、おびただしい死体や家の残骸が打ち上げられた。

 この大噴火では、現在の嬬恋村、長野原町を流れる吾妻川沿いにある村落を泥流で埋め尽くし、約1200人の犠牲者を出した。くわえて噴煙は上空1万mを越えて広がり、房総の銚子あたりでも2〜3寸ほどの灰が積もったと言われている。またそうした火山塵は全国的な冷害を引き起こし、天明の大飢饉の有力な一因になった。さらに成層圏までのぼった火山塵は偏西風に乗って世界を経巡り、欧州各地にまで飢饉をもたらした。一学説には「フランス革命の背景には浅間山の噴火が影響している」とまで言われている。

  鎌原村は 浅間山の火口から北に下ったところ、プリンスランド別荘地からさらに4キロほど下った辺りに、鎌原(かんばら)という大字レベルの集落がある。この日、鎌原村は山から3方向に押し出した泥流のうち中央の泥流に襲われた。村は火口から約12キロのところに位置しているが、ほぼ十数分で全村が泥流にのみこまれたと言われている。

  この頃、多くの村人は焼け石が空から降ることを恐れ、家の中にすくんでいた。反面、土石なだれには全くの無防備だった。その上、村は森に囲まれた窪地にあり、浅間山の見通しが決して良くなかった。村人が異様な音と地鳴りに気づいたときは、もう目の前に土石なだれが迫っていた。人、馬、家、田畑などすべて一瞬にして押し流され、窪地の村は5mもの土石に埋め尽くされた。鎌原村全118戸が流失、死者477人、死牛馬165頭。小高い場所にある観音堂の石段を逃げ上った者と、たまたま村外に出ていた93人が生き残った。土石は境内に逃げた村民の足下に迫ったが、50段ある石段を15段だけ残してようやく止まったのである。真っ黒に埋め尽くされた山麓一帯は100日以上も煙が立ちのぼり、年を越してからようやく冷えたという。

  無量院という寺の住職が、次のような手記を残している。「鳴り音は静かだった。突然熱湯が一度に水勢百丈あまり、山からわき出し、六里ヶ原一面に押し出した。神社、仏閣、民家、草木すべて一押しに流し去り、吾妻川沿岸七十五ヶ村の人馬を残らず流失させた。」と。その後の鎌原村古今未曾有の大災害に際して、江戸幕府(行政当局:注)と近隣の有力者が役割を分担しつつ村の復興を進めた経過は大変印象深い。(注: 鎌原村を含む吾妻地域一帯は幕府の天領で、代官所が行政を担っていた)

  鎌原村の生き残った93人は、命は助かったものの、親や妻子、家屋、田畑などすべてを一瞬に失ったため、茫然自失となり、なすすべが無かった。そのとき、近隣の有力者である大笹村の名主、黒岩長左右衛門、干俣村の干川小兵衛ら3人の有力百姓が世話役になって、災害直後に救援活動を開始し、被災者の自宅への収容、被災地への小屋がけ、食料・諸道具の供与などを行った。当初、幕府はあまりの惨状に被災地の放棄と村落の移転を図ろうとした。しかしながら被災村民が当該地での復興を強く望んだため、方針を変更して、冬を越すための食料代を渡すことから着手し、次いで幕府が工事費を負担する御救普請を開始し、田畑と道路の再開発を進め、田畑は生存者に均等配分された。当時は、同じ百姓身分の中においても家筋とか、素性といったことに大変こだわる風習があった。

  3人の世話役はこうした点に配慮して、「このような大災害に遭っても生き残った93人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない」と説諭し、生存者達に親族の誓いをさせ、家筋や素性の差を取り払うことから始めた。その後、追々家屋も再建されたので、世話役3人は、93人の中で夫を亡くした妻と妻を亡くした夫を再婚させ、また子を亡くした老人と親を亡くした子を養子縁組させるなど、実際に一族としてまとめなおした。こうした家族の再構成は、江戸時代を通じて見ても異例のことであった。このような幕府と地域有力者との連携による救援活動、非常時における有力百姓の臨機の知恵の行動は、今の世から見ても大変感動的である。

 日を改めて、 嬬恋村のあれこれについて書いてみたい(つづく)

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