【伝蔵荘日誌】

2013年6月12日: 亡き友へ GP生

 Na君が亡くなったとの電話を突然貰った。 前立腺の生検を終え、疲れた体を横たえて休んでいる時だった。 信じられない思いで話を聞き、一瞬返答が出来なかった。 生検後の体調不良で、通夜は無理であったが、告別式には参列できる状態まで何とか回復した。斎場で導師の読経を聞きながら、Na君に出会ってからの50年に亘る出来事が思い出され、心の中でNa君へ弔辞を語りかけていた。 葬儀には、かっての鉱山仲間も参列した。 弔辞を読む者もなく、型通りの弔電と喪主挨拶の後、出棺となり、最後の別れとなった。 享年71歳、早すぎる死だ。 葬儀の際に、心の中で読んだ弔辞を日誌に書き遺すことにした。

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 Na君、君の突然の訃報は青天の霹靂でした。 電話口で一瞬言葉に詰まりました。 思い起こせば、50年近く前、本社採用の鉱山技術者として、入社式で君と初めて顔を合せましたね。 鉱山勤務は3人。事務職のUe君は離島生活になじめず、1年後に退職しましたから、結局、鉱山同期は二人だけでした。君は採鉱課、私は選鉱課勤務でした。 君は選鉱課を希望したのに「お前が先に決まったから、採鉱に行くしかなかった」と入社早々言われたことを今も覚えています。 今、思えば、出発の違いが、その後の社内での仕事の違いに関わっている様にも思えます。

 私が鉱山閉山後、本社で仕事がなくブラブラしている時、以前の選鉱課長のMiさんから声をかけられました。 選鉱技術を基にした廃水処理設備の設計・販売事業を二人でで立ち上げ、私は、結局退職までの20年近く、この仕事に従事することになりました。君はトンネル掘削の経験を生かし、市街地での小口径トンネル掘削に従事し、次第に都市土木先般に手を広げていきましたね。もし、入社時の仕事が入れ替わっていたら、君と選鉱課長のMiさんとの大学の関係から、君が水処理の仕事を統括していたはずです。

 君は1メートル90センチ近い痩せ形の長身で、いくら食べても飲んでも太らない、痩せの大食いだと豪語していました。 アルコールにはすこぶる強く、君が酔いつぶれた姿を見たことがありません。君は40代後半に、胃ガンの為、全摘手術を受けざるを得なくなりましたね。 常に、危険と裏腹の工事現場の管理は、責任感の強い君にとって大きなストレスになるのではと心配していました。酒量も当然増えるでしょう。施術後はいつもの元気いっぱいの君に戻り、周囲もホッとしたものです。

 鉱山時代の君は辛い経験を幾つもしてきました。 鉱山全体で富鉱体が少なくなった頃、会社の増産要請に応えるため、君も私も無理な採掘を強いられました。私の坑場と違って、君の現場はかって東洋一言われた富鉱体の掘削跡周辺を、主たる採掘現場としていました。 当然、切羽の保持には大変な神経を使います。君の坑場の或る切羽で、支柱が盤圧に耐えられず、作業員が埋没ししたことがありました。 救出した時はすでに遅く、作業員は亡くなられていました。 運動会で、鉱山のアベベと言われた作業員の、マラソン勇者の姿はそこにはありませんでした。

 君は事故処理や労働基準監督署の事情聴取等に追われていました。私は上司の指示で遺体を親族の待つ社宅まで運びましたが、朝元気に弁当を持って出勤した夫、父親を、夕べに無残な姿で迎える親族の心情を想えば、涙なしに事故の事情すら語ることは出来ませんでした。今日は、平身低頭して親族に詫びていても、明日には私が君の立場に置かれるかもしれません。 それが、鉱山勤務でした。 閉山後10年以上過ぎてから、「今でも、事故当時の夢を見る」と、君から聞かされました。 一生、辛い経験を背負って逃れられない事は、どれだけの負担を心にかけ続ける事でしょう。 君の、胃のトラブルもこれ等と無関係であるとは思えません。

 Na君、君は私にとって良きライバルであり、掛け替えのない戦友でした。 何時か、新鉱脈開発が生産に寄与したとして、君と二人、全職員の前で特別賞与を貰ったことがありましたね。 僅かな賞与は部下の組長たちとの飲食に消えましたが、鉱山時代に滅多にない栄光を君と分かち合えました。

 入社、3年目の頃の事だったと思います。 本社より、各自研究テーマを定めてレポートを提出するようにとの通達がありました。立坑を中心とした鉱石運搬を担当していた私は、運搬システムの合理化による能力アップのレポートを提出しました。 会社から計画ゴーサインが出された時には、私は深部の坑場へ移っていたため、後を引き継いだ君にお鉢が回っていきました。 君に「お前の計画の後始末を俺がするとは」とぼやかれました。君は面倒な計画を完璧に実行してくれました。今でも感謝に堪えません。

 君が担当したこの現場は、公害防止も守備範囲でした。 鉱山閉山後、鉱山公害を隠ぺいしていると、地元の町議会から声が上がり、幹部社員や担当責任者が証人喚問のため、町議会に呼び出されました。 閉山により町の経済に大きな影響が出て、町自体がいら立っていたようです。 Na君、君も呼び出されましたね。 君に聞いても、多くを語ってくれませんでした。繊細な君にとってどれ程辛い経験であったか察して余りあります。 私が、あのまま、あの部署にいたら、町議会の喚問に曝されていたのは、間違いなく私だったでしょう。

 鉱山閉山時の労働合委員長は君でした。 それ以前は、先輩のTaさんが委員長で、私が本部の役員の立場でした。 私はTaさんの辞任に殉じて、半ば強引に退任しました。 その後、本社転勤となり閉山時の混乱と、崩壊した鉱山一家の姿を見る事はありませんでしたが、当時の委員長としての君の御苦労は如何ばかりかと思います。 あの時、組合を続けていれば、転勤は無く、私が君の立場になっていたかもしれません。

 鉱山時代の事を想い出すと限がありません。 お互い結婚してから、同じ社宅の隣同士が長く続きましたね。 奥様とは40年ぶりにお会いしました。新婚時代の昔と違い、お互いに歳を取りました。

 東京の本社で研修を終え、赴任の為、博多行き「寝台特急あさかぜ」に二人で乗車しました。食堂車でビールを飲みながら、これからの鉱山での仕事の事、生活の事を遅くまで語り合ったことを覚えていますか。あれから50年の歳月が流れ去りました。 希望と期待に満ちたあの時代に戻ることは出来ません。 けれど、離島の鉱山で君や多くの仲間と共に過ごした経験は、その後の生きる糧になっています。 今日、鉱山の仲間が此処に集いましたが、君は静かに、黙して何も語りません。いま、斎場で、君への弔辞を心中に語りながらも、君の死が未だ信じられない思いでいます。

私も何れ、君の住む世界に旅立つことになると思います。 独身寮時代、お互いに譲らず議論しましたね。 今度会うときは、どんな会話になるのか楽しみにしています。 長い間の交誼、有難うございました。
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 Na君は入院時には医者から二週間ぐらいで退院できるだろうと言われていた。しかし、肺に水が溜まり、3リットルも抜き取ったそうだ。 どれ程苦しかっただろうか。 予想に反して、入院20日足らずで心不全のため急逝した。 病は悪性リンパ腫と聞いた。 長年に亘る仕事の過酷なストレスが、彼の体を蝕んでいたのかもしれない。

 TGくんの「忍び寄る老齢化」ではないが、忍び寄るのは老化だけではない。70歳を過ぎたら、突然の死は想定外の事ではないだろう。生検に痛めつけられた自分の体は、時間と共に回復しているようだ。 採取細胞の培養結果が出るのはまだ先の事だ。 凶と出ても吉と出ても、対応する時間はまだ十分ある。家族の為にも、対処する時間が十分ある自分を幸せに思う。

 今は、亡きNa君の冥福を祈るのみである。 合掌

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